1 地方の仏教美術とシルクロード  

表紙

 房総半島南端の古寺に伝わる古典美術に、はるかなシルクロード(Silk Road:絹の道)のエキゾチックな香りを見つけることは、そうむずかしいことではありません。それは、そもそも古代・中世の日本の文化が中国を中心とした極東文化圏のなかにあり、その大部分が大陸の先進文化の摂取の過程であったことと、仏教自身がインドに生まれたことを考えれば、ごく自然なことと言えます。

 むかし江戸時代の善男善女は、古社寺の門前で売っている刷りものの御札や縁起の類を手にして、由緒ある古社寺の巡礼をしました。当時は古社寺の宝物は美術とか芸術作品ではなく、まったくの信仰対象でしかありませんでした。その意識を変革し、新しく“古美術”としての解釈をわれわれに与えたのは、明治政府の招請したお雇い外人アーネスト・フェノロサであり、その影響を受けた美術行政家岡倉天心でした。特に岡倉は、国粋的な理想主義者で、すぐれた国際感覚のうちに、アジアの文化・美術の優位と日本の役割を主張し、英文の『茶の本』や『東洋の理想』を著わし、日本美術をアジアの文化圏のなかで考える広域的な視野を示しました。こうした“古美術”の解釈の流れは、やがて和辻哲郎の『古寺巡礼』(1919年)などを生みましたが、これも戦前においては、一部の知識人の興味関心を引いたにとどまりました。真に西域までの広がりを含めた日本美術の解釈が大衆のものとなるのは、やはりつい最近のNHKの「シルクロード」がマスコミにのり大当たりをしたことを考えると、戦後のことと言えます。そしてさらに戦前の日本美術の対象が、奈良・京都の古社寺の文物にかぎられていた状況は、やはり戦後もしばらくあり、今日のようにわれわれの身近な地方の古社寺の文物に、古代シルクロードの余風をみようという動きは、まさにこのような展覧会をとおして、これからおこなわれていく課題だと言えます。

敦煌「鳴沙山」