2 日本人及び房州の受けとめた仏教美術  

表紙

 安房地方と仏教との出会いは、聖武天皇の天平13年(741年)の国分寺建立の詔によって、国分寺が建立されたことを大きな契機としていると思われます。安房国分寺は、市内国分の日色山国分寺の寺域と考えられ、発掘調査により当時の布目瓦や三彩の陶器片などが出土しています。

 国分寺は金光明四天王護国寺、尼寺を法華滅罪寺といい、護国経典としての金光明経と法華経を転読して、国家鎮護を計ろうという、大陸の隋・唐の国家仏教の考え方を学んだものでした。律令制と国分寺体制のもと、天平文化は唐文化の縮図のような華を咲かせました。東大寺の大仏は、西域を含めたアジアのなかでみると、そのころ流行した大仏造像の一例とみられますが、国内的には国銅を尽くした大事業でした。「青丹吉{あおによし}寧楽{なら}のみやこは…」とその繁栄をたたえられた天平の世も、東大寺大仏開眼供養の直後から陰りがみえはじめたことも事実です。天平勝宝6年(754年)に唐僧鑑真が来朝し、雑密系の仏教を請来、やがて平安京に都が移り、9世紀を迎え、最澄や空海によって新しい密教が伝えられました。その後、台密と東密として、平安初期の文化に大きな影響を与えました。しかし平安初期の密教、特に真言密教は唐の高僧恵果が直接空海に伝授したのものでしたが、難解なものであったのか、地方には広く伝わらなかった様子です。しかし両宗の本山が比叡山や高野山にあるように、平安時代の寺院は、古来の山岳信仰と習合がみられ、地方の山岳寺院建立に大きな影響を与えました。大陸の文化や政治の窓口を果した遣唐使は、菅原道真の建議によって廃止され、以後は国風文化の時代を迎え、浄土教の発達や美術工芸など和風化が進んだとされますが、末法思想の流布にともなって発達した浄土教的な考え方は、上代の南都顕教のなかにあったもので大陸の影響を無視するわけにはいきません。つまり浄土に対する考え方は、上代の、唐より請来したと言われる当麻曼荼羅に描かれた変相図的なもので、空海などが請来した両界曼荼羅的なものではありませんでした。

 大陸との交渉は、遣唐使の廃止以後、正使による交流はとだえてしまいますが、それでも民間による交易は依然行なわれていました。特に平安時代の末頃になると、宋文物の輸入が促進され、重源・栄西らの僧侶が入宋して新しい仏教文化の移入も行なっていました。こうしたなか、治承4年(1180年)の平氏の南都焼打ちにより、多くの天平の古典的美術が失なわれましたが、その後の南都の復興事業で、貴族にかわり覇権を握った武士は、天平期の古典をモデルにしながらも宋風を加えた新しい力強さを基調とした様式を示しました。鎌倉初期の古典復興の思潮は本地垂迹説、善光寺式三尊像の全国的な模鋳造、聖徳太子信仰、清涼寺式釈迦像の模刻などほとんど全国的な規模で行なわれ、それぞれが仏教の初伝にさかのぼり、大陸やインドにそのルーツを求める傾向を持っていました。

 頼朝が幕府を鎌倉に開くと、都から遠く離れた東国の地にも政治の中心ができました。幕府は武家社会の樹立のため、はじめ公家文化の導入をはかりますが、やがて武家の地位向上に伴い、宋文化の積極的な移入によって武家風の文化を形成しようとしました。その中心となったものが栄西が最初に移入した禅宗でした。

 北条一族をはじめとして鎌倉武士は、禅宗に帰依して、入宋帰朝僧や蘭渓道隆{らんけいどうりゅう}・無学祖元{むがくそげん}らの宋僧を招き、後に鎌倉五山と呼ばれる建長寺、円覚寺といった寺々を建立しました。中国高僧の渡来は、建長以後の鎌倉文化をかなり大陸的なものにしました。

 宋文化の影響は、建築では東大寺南大門にみられるような「天竺様{てんじくよう}」や禅宗寺院の「唐様{からよう}」が導入され、彫刻では南都仏所の運慶・快慶といった慶派が初期に活躍し、鎌倉後期はさらに大陸的な後期宋風彫刻が鎌倉を中心に多く造立されました。また絵画では、頂相画{ちんそうが}や道釈図{どうしゃくず}が請来され、ことに宋・元水墨画は、禅林の日本水墨画の形成に大きな影響を与えました。工芸品としては、綾{あや}・綴{つづれ}・錦{にしき}などの織物や陶磁器が輸入され、当時の唐物趣味をあおりました。

 禅宗の勃興のほか、鎌倉後半には浄土宗や浄土真宗、時宗、さらに日蓮宗といった、いわゆる鎌倉新仏教とばれる宗派が生まれましたがそれに対抗するかたちで、南都の旧仏教系の真言律宗が叡尊により鎌倉に伝えられ、忍性により東国に広められました。関東における中世文化の中心としての役割をはたした神奈川称名寺は、北条実時が亡母の菩提を弔うため武蔵国六浦に建てた寺で、文永4年(1267年)妙性房審海{しんかい}を迎え、真言律宗として開山しています。館山出野尾の小網寺には「金沢寺審海」の銘を持つ密教法具が伝えられており、東京湾を越えて称名寺と強い関係があったことがわかります。

 中世の房州は、対岸の鎌倉文化の影響を強く受け、それが持っていた大陸的な宋・元の文化を敏感に取り入れていたところに一つの特色を見ることが出来ます。しかし今日、安房の寺院に伝えられている文物のうちの、大陸の伝来又は影響を受けたものすべてが、この時期に寺にもたらされたと考えるより、明治までの長いあいだに伝来したものであり、それは中世の基礎があってはじめて可能であったと解釈する方が現実的だと言えます。

(吉田)

安房国分寺出土
   「三彩獣脚」
「智光曼荼羅」 
 鴨川・心巌寺
「木造地蔵菩薩坐像」
     館山・源慶院
鎌倉後半に流行した宋風の様式をもつ
「華瓶」
 「金沢寺審海」銘
    館山・小網寺