<伊丹喜内敏英> 

表紙

 八幡宮造営に世話役の筆頭として、棟梁加藤喜八とともに重要な役割を担った人物で、安房国平郡本織村(三芳村本織)の生まれである。

 喜内は正式には兵庫と称し、敏英を名乗とした。位牌に俗名喜平とあり、喜内は代々の通称として使われていたものである。曾祖父平内為勝(天明7年、76歳没)以来の大工の家で、祖父喜内英俊は、天明8年(1788年)に鋸山日本寺の呑海楼を建築したという。墓石には「挙功邦国大棟梁功居士」と刻まれている。朱印117石余の延命寺御抱え大工だったといい、代々本織村延命寺の門前に住み、延命寺大工と呼ばれた

 喜内敏英の仕事で確認できるなかにも、延命寺の隠居寺である光厳寺(富浦町)の山門と境内の白山神社がある。山門は関東大震災で倒壊したが、見事な木鼻の彫刻が残されている。

 元治元年(1864年)には吉浜(鋸南町)妙本寺客殿の普請を行っている。向拝蟇股の龍は、安房の名工と謳われた後藤義光の作品であるが、その両脇に並ぶ蟇股の邪鬼や、獅子鼻は、棟梁伊丹喜内敏英の作であり、義光と並んでも遜色のないものである。喜内の腕のよさについては今も語り継ぐ人が多い。

 その他には、元治2年本織村の豊熱稲荷を知ることができる。文政3年(1820年)に生まれ、明治3年(1870年)、51歳で没した。平内為勝より喜内英俊、喜内俊寿、兵庫敏英、亮七為賢と続いた。立川流の大工だったと伝えられる。

103.光厳寺旧山門の獅子鼻
104.光厳寺旧山門の木鼻
白山神社
妙本寺客殿
105.莫越山神社大工行事秘巻(部分)
106.風折烏帽子布衣許状