<中沢久五郎正友> 

表紙

 八幡宮造営にあたって当初棟梁を務めていたのが、平郡元名村(鋸南町元名)の大工中沢久五郎正友である。文久2年頃に加藤喜八が棟梁を引き継ぐが、その後も倅鶴治が名代として造営に参加した。この頃没したのかも知れない。鋸南町保田の加茂神社奥の院・江月の鶴ヶ峰神社本殿・元名の鶴が崎神社境内末社の大神宮宮殿がその仕事として知られ、また鋸南町中佐久間の密蔵院向拝彫刻も、嘉永5年(1852年)久五郎の作である。

 寛政11年(1799年)に中沢久五郎と伊丹喜内が、上佐久間の光明寺本堂を普請したといわれているが、これは先代であろうか。喜内は英俊と考えられる。文政6年(1823年)に中沢定盈という人物が日本寺の鎮宅符を翻刻したことがあるが、伊丹喜内英俊の意志を引き継いで行っていることと考え合わせると同一人物かもしれない。

108.太上神仙鎮宅霊符