<渡辺太右衛門義重> 

表紙

 八幡宮造営にあたっては四人の世話役に継ぐ小世話人として普請に参加した。文政7年(1824年)安房郡洲宮村(館山市洲宮)の農家に生まれ、元名の中沢久五郎の門人となった。造営時は清次郎と称し、のち太右衛門と称した。名乗は義重(義茂とするものもある)。

 地元洲宮神社の再建も手懸けているが、富浦町深名にある松尾神社の向拝彫刻には「当国洲宮邨彫工後藤太右衛門藤原義重」と刻まれ、後藤流の彫物師としての仕事もこなしていたようである。長須賀来福寺の後藤義光翁寿蔵碑建設賛成員の中にもその名をみることができる。

 また洲宮の渡辺家には自刻の恵比寿・大黒天像とともに、太右衛門の肖像も伝えられている。これは明治18年(1885年)、太右衛門62歳の姿で、上総のシモウ院造営の際に盛大に棟梁送りが行われ、儀式装束を身につけたその時の姿を、死の直前に刻んだものだという。

 また68歳のときには、自らの墓碑も造り、銘とともに、ここにも烏帽子直垂姿の自分を描き残している。一世一代の大仕事だったことがうかがい知れる。

 3歳で父を亡くし、母に孝を尽くしながら修業に励んだ結果、やがて弟子も増え、棟梁として多くの社寺を造営した。なした財で、洲宮・大成の地元小学校への資金寄付や神仏への喜捨を行ったことも生涯の誇りだった。明治39年(1906)、83歳で没した。

109.太右衛門肖像
110.恵比寿・大黒天像(恵比寿像は制作途中)
墓碑
深名松尾神社向拝彫刻