【2】房総の城  

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 房総半島の各地で各種造成事業が進み発掘調査がしきりに行われる中で、中世城跡の調整成果も数多く報告されています。丘陵先端部に設けられていた戦国の城は、開発の波にもまれるなかで、あるいはその実態は消滅しながらも、かつてのその姿を現わそうとしてきています。

 戦国時代の城の構造や役割は、その地点の地形はもちろん、政治や流通・軍事上の立地などの条件によって異なってきます。房総の場合、台地の広がる下総や上総北部と、深い谷が幾重にも縦走し、細い尾根が海にまで達する丘陵地帯の上総中央部から安房にかけての地域とでは、大きく地形が異なります。また戦国時代の後半になると、政治的には、千葉一族の分立する下総は後北条氏の勢力下にはいり、上総南部と安房はこれに対立する里見氏の勢力範囲であり、上総の北部・中央部は両者の境目として軍事的緊張の絶えない地域でした。そうした条件の違いから房総の北と南とでは主要城郭の形態にそれぞれ特徴がみられます。

 とくに戦国末期になると、下総や上総北部では後北条氏の城郭に見られる先進的な特色を備えた城があらわれます。1つの城にさまざまな機能を集中させ、広い領域を支配する拠点としての構造をもった広大な城郭になっています。一方上総南部や安房の城郭は、細い尾根が集まる高い丘陵部に、複雑にたくさんの曲輪を設けたものが多く見られます。構造的に領域を支配するような機能は薄く、むしろ軍事色の強い古いタイプといわれます。流通や軍事の要衝をおさえるという性格が強いのでしょう。領域支配型の城郭は近世館山城の出現を待たなくてはなりません。また海に囲まれていることから、海岸線に突き出した丘陵端には水軍の拠点となる城も数多く取り立てられ、海賊城とも称される海城の多いことも大きな特色です。

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原北条氏の討滅を目前にして、豊臣方によって把握された房総の主要城郭を下の写真3によって知ることができます。長南・勝見・池和田を抱える武田氏、土気と東金の両酒井氏、万木・へびうが・鶴が城を抱える土岐氏などは、里見氏の勢力下にあったこともありましたが、このときは北条方につき、徳川の軍勢に攻められて落城、滅亡してゆきました。

2.上総国周准郡市場古城之図(小糸城)
國學院大學図書館蔵
3.関東八州城之覚(天正18年)
毛利博物館蔵

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