【3】里見氏の城  

表紙

 海に囲まれた半島の先端部にある安房国を根拠地とし、湊川・小糸川・小櫃川・養老川・夷隅川などがつくりだした無数の谷と複雑な丘陵からなる上総国へと版図を拡大していった里見氏にとって、経営的にもまた軍事的にも、拠点となる城やその拠点をつなぐための城とを、数多く確保することは重要なことだったはずです。そうした地域で拡大していく領国を維持する必要や、さまざまな歴史的事情から里見氏は自らの居城を数度にわたって移しています。これは里見氏の城を考える上で大きな特徴といえます。

 関東足利氏の被官である里見氏が安房へ入部してくるのは、15世紀の中頃とされています。伝承ではまず南端の白浜に居城を構え、やがて安房の国府を臨む稲村の地に拠点を移していったとされています。それは里見氏が安房の豪族たちを配下に収め、安房一国を手中にするのと相前後した時期で、15世紀末から16世紀初頭頃と考えられます。

 そして天文年間にいたって、里見義堯は西上総の実力者真里谷武田氏の内紛を契機に上総進出を果たします。武田氏勢力の抵抗を排除し支配を強化していくために、居城は小櫃谷の久留里へ移され、子息義弘は東京湾寄りの佐貫に拠点を求めていきます。しかしそれは、対岸の相模を支配し、北の下総・上総北部に影響力を持ちはじめた後北条氏との境目への進出であり、最前線で後北条氏と対決していくことになるのです。

 こうした上総への進出はひとり里見氏のみの力ではなく、同時期に安房国長狭で力を蓄えて東上総へ進出し、夷隅の小田喜・勝浦を拠点とした正木氏と手を携えてのものでした。また里見氏が上総での勢力を維持するために、上総東部に割拠する長南の武田氏、万木の土岐氏、土気・東金の両酒井氏などとの提携も図りますが、里見氏から独立したこれらの勢力は、後北条氏との間を揺れ動く不安定な存在でした。

 天正年間に後北条氏との和議がなり対外的な不安が一段落すると、里見氏の一族内で対立がおこり、その後遺症から本拠は安房の岡本に移ります。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉による上総領没収と安房一国の本領安堵という事態によって、領国支配の機能を集中させた近世城郭としての館山城が誕生することになります。しかしそれは慶長19年(1614年)までのわずか二十数年の命でした。



◇◆ 城郭用語一口メモ(2) ◆◇
    -堀{ほり}-

 敵の直接侵入を防ぐため、古くから用いられていた防禦施設で、水掘と水を入れない空堀とある。山城では多くは空堀で、曲輪の周囲に巡らし、堀の底を通路として利用した。

2.上総国夷隅郡興津古城之図
國學院大學図書館蔵