【3】様変わりする来房者 (1)江戸時代の旅行者 房州への交通

表紙

 江戸時代に房州を訪れた人々は、那古寺や清澄寺・小湊誕生寺などへの巡礼参詣者や、この地方の有識者と交流する文人たちに代表されます。

 当時の交通手段としては内房・外房の街道を、海沿いに歩いてやってくるのが一般的で、江戸から館山までは、内房を来れば四日間の旅程です。内房から鋸山先端の明鐘岬をまわって保田・勝山・市部と来れば、難所ながら最短の木の根峠を越える木の根道、平坦ながら回り道の滝田道、起伏のある海岸沿いの南無谷道の三つのコースがあります。

 外房からは江見・和田・海発と海沿いに来ると、ここから内陸を横断して加茂坂を越える道が最短ですが、旅を楽しむ人々はさらに海沿いに白浜まで行き、神余越えで館山に入るか、洲崎をまわってくることも多いようです。いずれにしても、最後の峠を越えると鏡ケ浦の姿を目にすることになります。この鏡ケ浦に面して、船形・那古・北条・長須賀・館山の街場があり、多少の宿もあって、ここが逗留の地となりました。

 また、江戸や三浦半島との行き来には、海路を利用する方法もありました。寛文11年(1671年)に観音参詣諸国巡礼の人々の往行の船が那古村に出入りしていましたし、安政6年(1859年)には船形村で、江戸とを往来する押送舟に客人を乗せることについての取り決めがされていたりします。生魚を江戸へ輸送するための快速船である押送舟は、順風で帆走すると10時間で到着したといいます。しかしこれは土地の人々や商売人などの利用が多かったのではないでしょうか。文人などの旅行者の多くは陸路を北上していくようです。

31.結願額(元禄16年)
32.押送舟図(文政4年)