新しい来訪者

表紙

 また、避暑と称して滞在型の近代的レジャーとして訪れる人々も現れてきます。明治22年の夏に来遊した東京築地の其文という人物は、東京に流行する腸チフスの脅威を避け、館山町柏崎の知人をたよって18日間の滞在をしています。彼が乗り込んだ通快丸には、安房地方の乗船者が多かったとしながらも、自分と同様の避暑客も数人乗船していたことを記しています。滞在中には祭礼や鯨の解体を見物し、寺社の参詣、名所めぐり、釣り、磯遊び、風俗の見聞などを楽しみ、その後の館山行楽の基本を体験していますが、館山町の北下台にあった汐湯で海水浴をしたことも記しています。

 これは明治19年(1886年)に療養のために転住してきた山口県出身の元軍人、金近虎之丞の屋敷に設けられていた施設です。海水と真水に浸る浴室として湯銭をとって開放していたもののようで、ここの海水の湯に浸ることを海水浴と称しているのです。金乕亭と呼ばれ、明治24年に避暑に訪れた元軍人で俳人の前田伯志も金乕亭で海水浴をしていますが、やがて彼も金乕亭近くに永住するようになります。海岸のきれいな空気に加え気候が温暖であることから結核に代表される呼吸器系の疾患をもつ人々の療養地にもなっていくのです。

 このように避暑避寒や病後保養のための転地療養の適地として鏡ケ浦の海岸が注目され選ばれるようになってきたのは、明治20年頃からだといいます。

 一方こうした情勢をうけて、避暑避寒に来房した客を迎えるためのサービスもはじまります。旅人宿でも旅行客を宿泊させるだけでなく、行楽するための名所を紹介する案内書をつくりはじめるようになりました。北条の旅館木村屋では、はやくも明治25年(1892年)『房州避暑案内』を発行し、房州の各所紹介に加え、安房を一回りするための路程と宿の紹介までもしています。そこには「暑中御来遊」が「私共ノ営業ハ申迄ナク、多少ノ土地ノ潤沢トモ相成」るという、土地の発展と結びついた考え方がめばえていました。

43.堀田正倫伯爵北条海岸別荘(大正8年)
45.小林清親「日本名勝図会 房州鏡ヶ浦」
(明治30年)
46.房州避暑案内(明治25年) 「鏡浦湾頭木村楼之図」
        国立国会図書館蔵