(3)海水浴客 海水浴と学生客

表紙

 また『房州避暑案内』には「鏡浦湾内一波起キズ、海水極メテ清絶ナルヲ以テ、御婦人方ノ御遊浴ニ適シ」とあり、金乕亭の汐湯とほぼ同じ時期に、海岸での海水浴も始まっていた様子がわかります。波静かで女性向きの好浴場であるとの宣伝のもと、明治34年(1901年)には一夏に数千人の海水浴客が訪れるようになり、旅館もこの海水浴客のために新築するものがでてきています。このように明治30年代になると海水浴が盛んになってきますが、同じ時期に、学生たちによる教練としての水泳が行われるようになってきたことが、知名度をあげていきました。

 明治31年(1898年)に第一高等学校水泳部が三浦半島から北条町八幡の海岸へ水練場を移してきたのが早いもので、三浦に比べて水温が高いことがその条件にかなったといいます。明治36年には東京高等師範学校と開校したばかりの安房中学校が参加して競泳大会が行われ、39年にはさらに付属中学校・府立第一中学校・開成中学校が加わって、6校500名による第一回関東連合遊泳大会が行われるまでになります。大正4年頃になると、鏡ケ浦に水泳場を設置する学校も十数校に増え、大会参加の学校団体も二十にのぼったといい、ぞくぞくと学生たちが訪れるようになっていきました。一高と高等師範は八幡海岸に寄宿舎も設置していて、鏡ケ浦の夏は学生たちであふれるようになっていったのです。

 明治39年(1906年)の『風俗画報』の論説では暑中休暇を有意義に過ごすことをすすめていますが、一方、同じ年の『千葉教育雑誌』で海水浴客の風俗が地元青少年に与える弊害を説く教育者も現れ、海水浴が大きな話題になっていることがわかります。また跡見女学校をはじめ秋に修学旅行に訪れる学校も現れるようになってきます。

47.館山市海水浴場<絵はがき>
47.関東水泳大会壮観<絵はがき>
47.東京高等商業学校水泳場<絵はがき>
48.館山桟橋に着いた青山学院中等部水泳部(昭和2年)<絵はがき>
47.跡見女学校修学旅行絵はがき(大正8年)
47.北条海岸地曳網を見る学生たち<絵はがき>