(2)震災からの復興 観光と町づくり

表紙

 大正12年(1923年)9月1日の昼時におきた激震は、房州各地にも未曾有の災害をもたらしました。このいわゆる関東大震災によって、館山、北条、那古、船形などの市街地は、建物被害だけをみてもどの町も90%以上が全半壊しています。そこで安房郡震災復興会を組織して、安房郡を挙げての協力体制による復興がおこなわれました。この復興はまさに町全体の建直しでもありました。道路・河川・海岸・港湾などの土木や建築物の復興とともに、水産業・農林業・商業など産業の復興が急がれましたが、その復興に大きな役割を果たすのが、「復興活動に努力せられつつある都人士を迎えて慰安を与ふる」という観光事業の推進でした。

 早々に土木建築の復興が進むと、翌年には夏の海水浴の勧誘のために、安房北条商業倶楽部が『房州鏡が浦案内』を発行(7月15日)し、地震被害の内容とその復興の状況を伝えて、安心して来遊ができることを宣伝します。また千葉市で千葉石版印刷所を経営する由良保三の企画で、同様に『復興の房州』が刊行(7月27日)されます。この由良保三はのちに千葉観光社を興す人物です。さらに翌14年には、観光政策の充実を期して安房郡振興会が組織され、6月にはさっそく来遊者の利便を図るとして『房州めぐり』が発行されるなど、観光復興を通じての震災からの復興が図られていったのです。

 こうした旅行客誘致を中心とした復興は、震災前を上回る設備を整えていくことになり、宿泊施設は大正14年になると、船形で旅館六軒、貸家十二軒、貸室四十四室、那古で旅館六軒、貸家一軒、貸室十三室、北条で旅館十五軒、貸家五十五軒、貸間五百二十二室、館山で旅館七軒、貸家十六軒、貸室室三十四室もの数になっています。

 一方、震災は地形の変化をももたらし、高の島が干潟で陸続きとなり歩いて渉ることが可能になったり、鏡ケ浦の海岸線が延びてさらに遠浅の海となり、海水浴場としての魅力がますことになりました。また高の島をはじめ海岸沿いなどでは、地震後に鉱泉を湧出しはじめたところもあり、温泉のない房州の宣伝材料になっています。

 そのほか、復興の気運に合わせて、北条海岸で「鏡ケ浦文化荘地計画」を打ち出す業者もでてきます。都人士に向けての別荘地分譲計画で東京郊外の田園都市づくりにも刺激されたのでしょう。当時のサラリーマンを中心とする中流階級を対象にした別荘地化とあいまって、館山・北条の観光地化が進んでいく様子がわかります。いまも北条の新塩場と呼ばれる一画にこの時代の文化住宅が多数建ち並んでいるのも、転住者向けの別荘地分譲だったのでしょう。

82.先端が壊れた館山桟橋
83.北条海岸汽船場通踏切付近の地割れ<絵はがき>
84.房州鏡ケ浦案内(大正13年)
    船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)
86.復興の房州(大正13年)
87.震災踏査避暑地旅行案内(大正13年)
86.鏡ヶ浦文化荘地計画(『復興の房州』大正13年)