戦争のなかの観光

表紙

 一方、昭和になると戦争の影もちらつきはじめていました。大正15年に内房全域が東京湾要塞地帯に組み込まれたため、写真撮影や風景の模写などが禁止され、旅行者と憲兵・警察のトラブルもおこりがちになります。この頃に発行された絵はがきには、すべて要塞司令部の許可をうけたことが印刷されていますが、昭和12年に出版された『観光の房州と観音巡礼案内』には1ページを割いて「我等の要塞我等で守る 写真うつすな写生をするな 写真機没収刑罰うける 我等の要塞我等が護る」の注意書きが掲載されていました。

 昭和12年7月に日中戦争がはじまると、徐々に旅行客も減っていきます。しかし、水泳鍛錬と称して東京方面の小学校・中学校の団体はしばらくの間は海水浴に訪れていました。またこの頃になると、房州の冬の花卉栽培が観光資源として注目されるようになってきていました。日中戦争の影響で中止されたものの、冬の草花列車が企画されたといいます。冬の休養地としての将来性も期待されるようになってきていたわけですが、昭和16年暮れに太平洋戦争がはじまると、戦争遂行にそぐわない遊びとしての旅行は抑制されていきました。それでも館山市では昭和17年の予算で1210円の海水浴場費が計上されていて、しかも150円の予算が年度途中で追加されていますので、健康報国の名のもとに訪れる人々がいたことがわかります。しかし戦局が悪化していく昭和18年にはこうした予算化も見送られたようで、観光地館山の発展はいよいよ中断することになりました。

104.東京日々新聞房総版(昭和13年7月23日)
90.東京湾汽船の栞
69.北条海水浴場絵はがき
(大房岬、船形山などが消されている)