(3)船形の湊 

表紙

 天正20年(1592年)の文書に「舟方之津」と表現される湊が船形にありました。元禄地震前には入江状になっていたと思われる、川名のどんどん川の河口のことと思われます。八幡祭礼に際して、里見家が船形の津から祭礼用の船を召し出していました。

 江戸時代になると、小字磯崎が「磯崎湊」と呼ばれていました。現在の船形港の西端にあたる場所です。この西端に突き出した磯がよい波除けになっていました。

 船形は漁村として発達しましたが、江戸への生魚輸送の基地として魚が集まり、そのために多くの押送船が営業していました。江戸時代後期になると船の出入りが多くなり、安政2年(1855年)になると磯崎に石積みの堤防が築かれました。この堤防は大正の地震で陸に上がり、いまも昔の姿をとどめています。

 また、湊ではありませんが、那古寺の門前町が発達した那古の浜から、船が出ることもよくありました。諸国巡礼などのために三浦半島へ航海する人々の利用が多かったようです。

50.里見家朱印状写 天正20年(1592年)
安政年間に築かれた防波堤
51.磯崎湊普請関係文書