(1)鏡ケ浦の生活 

表紙

 海と陸からの自然の恵みが多い鏡ヶ浦周辺では、縄文時代に多くの集落があったことが遺跡の分布から想像できます。鉈切洞穴は漁のためのキャンプだったらしく、土器片錘{へんすい}という網につけるおもりや釣針や銛などの漁撈関連の道具が出土しています。またゴミとして残った貝殻や魚の骨などもあり、その骨からは、かなり沖合いまで出てマダイやマグロなども獲っていたことがわかります。土器は南関東から西に多く分布する称名寺式とよばれる様式の土器が出ています。加賀名遺跡では古墳時代の土師器{はじき}の甕が伊豆から三浦半島にかけて分布する様式のものです。古代の人々は相模湾を中心に、漁や交易のために船に乗って行き来をしていたことがわかります。

 奈良・平安時代になると海産物にめぐまれた安房国では、特産物として納める年貢に「アワビ」が指定されていました。館山平野の奥にある大井・片岡(館山市九重地区)の人たちもアワビを納めていたことが、奈良の平城京から出土した木簡という荷札でわかります。

 江戸時代になると、先進技術としての大規模な網漁をする関西地方の漁師が房総に進出してきました。彼らは漁を自給のためでなく、鰯や鯛を中心に産業として行ないました。やがて江戸やその周辺で鮮魚や干鰯{ほしか}の需要が高まると、江戸中期には房総の沿岸村々でもその技術を習得して、漁業が盛んになっていきます。鏡ヶ浦でも漁や生魚の輸送などで生計をたてる人々が増えていきました。生魚は小買商人が漁師から買い付け、押送船の輸送業者に江戸の魚問屋まで運ばせるというシステムもできあがりました。

鉈切洞穴(館山市浜田)
鉈切洞穴出土遺物 縄文時代 ※以下84、4枚の写真

84.骨や角でつくった釣針・ヤス・銛
84.網のおもりにした土器片錘
84.縄文時代の魚骨
84.縄文時代の貝類

86.さんま網漁図 勝山調画

87.かつおの流し鈎図 文化6年(1809年)勝山調画

88.那古海岸の漁船(大正時代)

 ドビンカゴという大きな生け簀篭を積んでいる。サバやカツオの一本釣り漁の撒き餌にするイワシを入れて、海に浮かせて生かしておくもの。

89.館山海岸の漁船(昭和初期)

 北下台下の浜に引き揚げられた漁船。地引網船だろうか。

90.鏡ヶ浦での鯨漁(明治末~大正)
91.館山海岸に揚がった鯨(明治末~大正前半)

 写真90、91 江戸時代までの鯨漁は勝山(鋸南町)が中心だったが、明治になって館山海岸に東海漁業などの捕鯨基地ができ、鏡ヶ浦に拠点が移ってきた。湾内に鯨の群れが入ることも多く、明治34年には4、5百頭の鯨が入って捕獲され、話題になっている。漁期が海水浴時期とかさなり、解体処理の際には血で海が真っ赤に染まった。会社は大正地震後に白浜へ移転した。


92.地引網漁(昭和初期)

 北条海岸あたりでの地引網。篭をもって近付く人がいる。平久里川・汐入川の河口付近が好漁場で、イワシやアジ・サバ・イナダなどを対象にした。

93.煮干づくり(昭和初期)

 北条海岸でイワシを簀子にのせて干しているようす。イワシは煮干や干鰯に加工して東京方面へ出荷した。干鰯は江戸時代から田の肥料となる重要な産品だった。