<里見氏と那古寺> 

表紙

 とりわけ那古寺と強い関係をもったのは里見氏でした。房総里見氏の初代とされる里見義実は、子息義秀を那古寺第21世の住職につけると、鶴谷八幡宮の別当としてその管理にあたらせました。那古寺は安房国総社である鶴谷八幡宮の別当寺として位置づけられており、信仰という宗教世界からの里見氏による安房支配の一翼を担わせたのです。これは関東足利氏が鎌倉で鶴岡八幡宮の別当に一族を配し、東国支配の一翼を担わせたのと同じかたちです。

 その後も23世熊石丸が寺の記録で里見実堯の子とされ(近年里見義豊の子という説も出ている)、26世宥範も「里見家ノ人」と記録され、30世宥怡にも「里見家」とあります。里見家の当主はその近親者である那古寺別当とともに安房の聖俗両方の世界を支配したのです。

98.鶴谷八幡宮修理棟札 永正5年(1508年)

 永正5年(1508年)の棟札の下部には、「八幡宮棟札目録」にある文字が書かれている。里見義通が大檀那として鶴谷八幡宮の修造を行い、那古寺の熊石丸が権別当として名を連ねている。こうした組合せで里見家歴代当主が八幡宮の修造を行なった。なお里見義通は永正11年(1514年)に梵鐘を鋳直し、弘治3年(1557年)年には里見義堯も梵鐘を修理した。また里見義弘が天正2年(1574年)年に出した約束の起請文では、八幡大菩薩と清澄の虚空蔵菩薩とともに、那古観世音菩薩に誓いを立てており、信者としての大檀那でもあった。里見義康・忠義は那古寺に109石余、鶴谷八幡宮に146石余の寺社領を寄進している。

31.八幡宮棟札目録

39.那古寺歴代書上(部分)
天保8年(1837年)写
27.里見忠義寺領寄進状写
   慶長11年(1606年)
左上:25.足利高基巻数請取状写  右上:25.足利藤政巻数請取状写
左下:25.足利家国書状写  右下:25.足利家国書状写

 安房国では丸の石堂寺、長狭の龍興寺・大山寺・清澄寺、平北の妙本寺などが足利氏の祈願寺として知られている。那古寺については足利氏の祈願所という記録はないが、戦国時代の中期以降になると、古河公方の足利高基やその孫である足利藤政・家国兄弟が、那古寺や鶴谷八幡宮に祈祷を依頼している。巻数請取は寺社で祈祷を行なったことの連絡に対する御礼の返事である。高基は父政氏や弟義明と公方の地位を争い、藤政・家国たちも公方の座に着いた弟義氏とその地位をめぐって争った人物たちである。藤政・家国は兄藤氏とともに永禄5年(1562年)に古河の御所を追われており、その際里見義堯・義弘父子は彼らを庇護している。とりわけ家国は那古寺との強い関係をもつようになる。祖父や兄のように単に祈祷の依頼をするだけでなく、神馬や御正体の寄進を行なっており、永禄8年には怨敵調伏の呪法を行なう孔雀明王経を寄進している。

また那古寺では里見氏との関係が深かった小弓公方足利義明や家国兄弟たちを書き入れた源氏系図を蔵している。

30.那古寺源氏系図(部分)

3.東照大権現坐像 宝永8年(1711年)
左:28.徳川家光御朱印状写 寛永13年(1636)年    右:40.御朱印箱

 里見氏の没落後は、元和2年(1616年)に幕府代官中村弥右衛門尉によって里見氏から那古寺に与えられていた寺領が承認された。徳川家光以降は歴代将軍からの朱印状によって109石2斗の寺領が那古村で与えられ、鶴谷八幡宮が八幡村で与えられた146石8斗とともに所領支配を行なった。朱印状の原本は安房では明治新政府に提出したため残されていないが、将軍代替わりで行なわれた御朱印改めのとき江戸へ運ぶのに納められた御朱印箱は残されている。また、那古寺では家康を神格化した東照大権現を社殿風の厨子に祀り、歴代将軍の月牌供養もおこなっていた。この東照大権現像は宝永8年(1711年)に寄進され、寛政8年(1796年)4月17日に家康の祥月命日にあわせて修理された記録がある。