<信心をする人々> 

表紙

 権力者や地域の有力者による帰依と保護がある一方で、様々な身分の人々の信仰が積 み重ねられていました。那古寺に信心を寄せる人々や参詣する人々の様々な信仰のかた ちが、那古寺の歴史を支えてきたともいえます。

4.千手観音名号額<霊鑑寺宮宗真筆> 
寛延元年(1748年)

 この千手観音の名号額は寛延元年(1748年)に門跡である霊鑑寺宮宗真尼王から寄進されたものである。霊鑑寺は京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院で、皇女・皇孫女が歴代の住持となった。承応3年(1654年)に後水尾天皇の皇女を開山として創建されており、宗真は鎌倉時代の後伏見天皇から15世の孫にあたる皇孫女。

29・霊鑑寺宮仏像寄進状 延享5年(1748年)

 那古寺に寄進された背景はわからないが、同じ年に金尾谷村(南房総市富浦町)の喜右衛門が、回国修行成就を慰労されて霊鑑寺宮の家司から阿弥陀尊像を下賜された寄進状や関白一条道香の家司から御簾を下賜された寄進状があり、2年後には那古寺の什宝として什物記に記載されていることから、喜右衛門の介在を考えることができる。しかし喜右衛門の人物像については未詳である。


101.和泉式部霊塔拝殿新築図面
33.和泉式部肖像画 明治33年(1900年)

102.和泉式部霊塔境内ヨリ鏡ヶ浦眺望之図 明治34年(1901年)

 那古山の山頂「潮音台」にある和泉式部とその娘小式部内侍の墓と伝えられる石塔は、寛政5年(1793年)の那古村明細帳に「和泉式部廟」と記載され、墓所としての伝承が古くからあった。和泉式部は日本各地に生誕地や墓所の伝説があるが、中世に式部伝説を語り歩いた遊行の比丘尼の活動成果ととらえられている。明治時代にこの場所で式部の霊夢を見たという木樵りの話が広まると、参拝者が急激に増え、明治33年(1900年)に拝殿の建設計画がもちあがったことがあった。地元有志を中心に勧募活動が始められ、この計画図2面がその際につくられた。同じ頃に石灯篭や和泉式部の木像、道しるべ、和泉式部を中心にした百人一首と二十四孝の124枚に及ぶ格天井絵などが着々と準備された。人々の信仰心が動かしていた計画だったが、やがて立ち消えたようである。


97.安房国真景図(那古観音参詣図) 大正2年(1913年)

上図部分

 長生郡大東村和泉(いすみ市岬町)の人々が、大正2年に那古観音を参詣した記念として地元の飯縄寺に寄進した絵馬である。安房国札観音巡礼の丑年開帳にあたる年で、3人の男性を先達に27人の女性が参詣した。潮音台の和泉式部拝殿を中心にした構図は那古寺の建築計画図をもとにしているが、和泉の人々が参詣していることとこの図を使っていることは関係しているのだろう。海岸には当人たちの姿が描かれているが、日常から開放された女性たちの参詣旅行の喜びが表れている。

11.観音拝み絵馬

これは観音像を拝む信者の姿が奉納されたもので、願い事をもって信仰する人々である。