<鶴谷八幡宮と那古寺> 

表紙

 下の絵図は鶴谷八幡宮の境内ですが、八幡社殿の左後ろに本地阿弥陀堂、右手前に鐘楼が描かれています。八幡神の本当の姿は阿弥陀如来なので、それを祀るお堂があるのです。神仏習合という我が国独特の信仰形態です。周辺には神職である神主・禰宜・命婦・4人の社人の家柄があり社前奉仕をしていましたが、すぐ近くに那古寺の衆分の千灯院があって、社役として神社管理にあたりました。八幡宮の社領も那古寺を介して神社や神職に配当されていました。江戸時代になると全国的に神職が別当支配への抵抗をみせるようになり、鶴谷八幡宮でも享保19年(1734年)年に本殿での仏式の神檀に反発して訴訟になったことがありましたが、別当支配が揺るぐことはありませんでした。八幡宮の神事祭礼にも那古寺が強く関わっていました。

110.八幡村絵図(境内部分)

99.鶴谷八幡宮修造棟札 元亀3年(1572年)
32.絹本著色僧形八幡神像 南北朝時代 千葉県指定文化財

 この画像は僧形をしているが八幡神を表している。江戸時代までは住職以外がみることは禁じられていた那古寺の什物である。縦160cmに及ぶ画像で、左に男神、右に若宮八幡を配した三尊形式で描かれている。神仏習合の思想に基づいた八幡神の画像で、いわゆる八幡の祭りに際して那古寺から八幡宮に持ち出され祭神として祀られた。明治になるまで八幡の祭りは放生会と呼ばれる神事で、仏教色が強かった。旧暦8月14日・15日の祭典はこの画像の移座があってはじめて執り行われたと伝えられている。こうした三尊形式の僧形八幡像は鎌倉時代以降に現れたもので、八幡神のきびしい表情や法衣が台座から垂れた様子などから南北朝時代中頃の作とみられている。

25.足利藤政巻数請取状写

 里見氏や足利氏は那古寺ばかりでなく、同様に鶴谷八幡宮も信心した。むしろ源氏である両者にとっては八幡神は氏神としての存在でもあった。里見義弘や義康はこの神前で元服の式を行なっているのである。また義通以降の歴代当主は最後の忠義を除いて、在世中に鶴谷八幡宮の修造を行なっている。それは関東の主である古河公方足利氏の代官として安房支配の正統性を主張する場でもあった。左頁の棟札は里見義弘が関東の副将軍を名乗って、足利藤政を押し立てて公方に据えようとした政治的意図を強く示している。里見氏に庇護された古河公方家の足利藤政は兄藤氏の没後、里見義弘らに擁立されて敵対する小田原北条氏に対抗した。

左:同右(尾部)  右:26.岡本頼元八幡宮奉納祝詞 天正17年(1589年)

 里見義康の臣岡本頼元が岡本城の御殿で勤番中に火災が起こり、当直の50余人が怠慢をとがめられて出仕を止められた。これは頼元の父安泰が子息の再出仕を願い、天正17年10月から翌年の8月にかけて、八幡大菩薩と天満天神に祈念をした際の祝詞である。のち父の祈念が成就し出仕が叶ったことを感謝して、頼元が鶴谷八幡宮に奉納した。その後別当である那古寺に伝来したものである。