<那古寺観音堂、大修理の歴史> 

表紙

 寛文12年(1672年)の絵図(36.那古寺境内図)によると、観音堂はすでに現在の位置に建ち多宝塔や鐘楼・仁王門などの諸堂も整備されていたことが描かれており、元禄地震以前の江戸前期には現在のような伽藍が出来ていたとみられます。記録のうえで諸堂の建立を確認すると、16世紀初頭の永正年間(1504年~1521年)に薦野道了という人物が塔と二王堂(仁王門)を修復し、里見義通が梵鐘を鋳直しています。この時期は明応7年(1498年)8月に関東から東海・関西にかけて大きな被害を出した大地震からの復興が各地でおこなわれていました。塔と二王堂は修復というのですからそれ以前から建てられていたのでしょう。梵鐘も永享12年(1440年)に作られたものの再造とされており、これ以前から鐘楼もあったと思われます。慶長16年(1611年)の住職宥怡のときにも塔の九輪が里見家から寄付され、塔の本尊の作料も里見家から出されることになっていた様子が伝えられています。これは慶長9年(1604年)の地震からの復興ではないかと思われます。

 その後の元禄の大地震や、大正の関東大震災などでも那古寺の諸堂は倒壊や破損の被害を受け、その都度多くの人々の努力で復興を遂げています。また地震がなくとも頻繁に修理は繰り返されました。宝暦の再建からおよそ50年後の寛政6年(1794年)には屋根と高欄の修理があり、明治10年(1877年)にも小修理を行い、大正9年(1920年)から大正11年にかけては大改修を行っています。このおかげで関東大震災での被害が少なくて済んだと伝えられています。

60.観音堂普請請負一件訴状より

 ここには「観音堂は岩石の山の半腹に海辺へ掛け作りに仕り候六間四面の堂にて御座候」とある。元禄5年(1692年)の表現であるが、地震前には船形の崖観音のような作りの堂を思わせる。

59.観音堂普請請負一件済口証文 
元禄5年(1692年)

 元禄5年(1692年)10月、観音堂普請用の材木が調達できずにいたところ、突然江戸から来た三人の男たちがその調達を申し出、那古寺からの資金提供の約束手形をもって江戸へ帰った。不安に思った寺側は翌月に手形の返却を求めたが応じてもらえず、江戸の奉行所に訴え出たところ手形が返却され、訴訟が和解で解決したことを奉行所に届け出た証文。観音堂修理にからんでこんな事件も起こっていた。

50.観音堂外陣蟇股彫刻

 外陣と内陣の欄間上にある蟇股彫刻。宝暦9年の欄間彫刻の上にあった雉の彫刻が、享保16年(1731年)のもので、江戸神田の後藤茂右衛門正紀の作と墨書されていた。茂右衛門は明治期の房州彫刻師として知られる後藤義光の師匠筋の家にあたる。

同裏面(墨書銘)

51.観音堂妻飾「天邪鬼」

観音堂の屋根を支えるように妻に配された天邪鬼{あまのじゃく}。東西の面にある。

 

52~53.観音堂高欄擬宝珠

 左は享保21年(1736年)の奉納で、右は宝暦6年(1756年)に奉納されたもの。それぞれ享保の再建と宝暦の再建に合わせた寄進と思われる。