<出開帳と万人講> 

表紙

 地震からの復興やその後の維持には莫大な経費を必要とします。当時109石の寺領を有した那古寺といえども、再興資金は簡単に調達できるものではありませんでした。元禄地震からの復興、観音堂と諸堂の再建のためには、地元はもちろんできるだけ多くの人々からの寄進に頼る必要がありました。そこで行なわれたのが江戸への出開帳です。本尊の千手観音を江戸へ出張させて参詣者を呼び集め、一般民衆からの喜捨を求めるとともに、那古寺への関心を高めて江戸の有力者からさまざまな寄進物を獲得するのです。江戸時代には享保10年(1725年)、宝暦6年(1756年)、文政2年(1819年)の3回の出開帳がありました。いずれも本所の回向院境内で60日間行なわれています。享保の初回のときには寺側では宣伝のために縁起を整備し、また江戸の信者からは鳥居清倍という大物絵師が描いた歌舞伎絵馬の奉納がありました。江戸本船町の商人からの寄進です。文政のときには館山ともゆかりのある元老中松平定信の書になる「円通閣」の扁額が江戸の商人たちから寄進されており、那古寺への関心を高める契機にはなったようです。享保の出開帳は同16年の観音堂再建につながり、宝暦の出開帳は同8年の観音堂再建と多宝塔再建につながっています。

62.江戸出開帳願 宝暦5年(1755年)

 享保の再建に続く修復事業のために、管轄の寺社奉行所に江戸での出開帳を願い出たもの。実施の一年前である。

64.回向院境内開帳場絵図 文政2年(1819年)

63.開帳立札絵図 文政元年(1818年)
65.開帳場細工物建置につき届 文政2年(1819年)
66.開帳場奉納絵馬絵図 文政2年(1819年)

67.開帳場奉納細工物絵図 文政2年(1819年)

江戸での開帳願が前年4月に出されると、そのことは回向院門前での立札によって江戸市民に知らされた。開帳中は本尊だけでなく宝物類も公開され、また人目を引くための絵馬の展示などが行なわれた。細工物とは竹二三本を立てたところに虎の皮を着せたもので、江戸での世話人が用意したものらしい。

108.万人講勧進帳 宝暦7年(1757年)

 宝暦の再建にあたっては、出開帳の収入に加えて、地元東町の伊勢屋甚右衛門が中心となって安房国内に広く勧進を行い、国内半数の村々から村を代表する形での名主による寄進と、個人の寄進、万人講を結んでの寄進というかたちで寄付が求められた。万人講による小額の積み上げによって合計398両の資金を集め、宝暦11年(1761)年の多宝塔完成につなげていくことができた。