<諸堂・宝物の修理> 

表紙

 観音堂だけでなく、境内の様々な堂宇が多くの人々のちからで維持され残されてきました。宝暦の観音堂再建のときには多宝塔も再建されています。仏像や御真影などの信仰上の本尊はもちろん、記録類の修理もされてきました。修理はたんに目の前の傷んだものを直すということだけでなく、世代を超えて後世に伝えていくために必要な行為として代々おこなわれてきたものでした。

左:49.阿弥陀像修理銘札 明和4年(1767年)
右:48.多宝塔修理棟札 昭和55年(1980年)

宝暦の観音堂・多宝塔修理が行われたとき、閻魔王像や阿弥陀如来像の修復も行なわれた。阿弥陀像の再興は伊勢屋甚右衛門が万人講をはじめてから11年目であった。このとき再建された多宝塔が昭和55年に県の指定文化財として補助事業の修理が施された。220年目である。棟札などの記録が伝えてくれている。

69.僧形八幡神像軸芯 慶長19年(1614年)

 南北朝時代に制作された八幡神像には修理の歴史が記録されている。絵の軸芯には、制作されてから二百数十年後の慶長19年(1614年)に修理されたことが記され、さらに190年後の享和3年(1803年)に修理されたときには、時の住職憲応によって修理記が書き残された。次の修理が195年を経た平成10年(1998年)であり、修理報告書が出版されている。

          
68.鶴谷八幡宮御影修理記 享和3年(1803年)
左:24.内閣修史局採訪古文書奥書 明治19年(1886年)
右:24~26.那古寺文書

 明治になって国の事業として国史の編纂事業が始められ、明治18年(1885年)に関東六県の古文書採訪調査が行なわれた。編修責任者である重野安繹を中心に各地の古文書を借用しては模写を行い、原本は表装して翌年所有者に返却された。那古寺では、足利氏の巻数請取状を中心にした文書12点と、里見時代の文書5点、里見家臣岡本頼元の奉納祝詞、那古寺歴世書上がそれぞれ1巻ずつにまとめられ、内閣修史局が調査表装したという奥書をつけた巻子が残されている。模写本は現在東京大学史料編纂所に所蔵されている。