竹原村(館山市)・丹生村(南房総市)・大崩村(鋸南町)の医者どん 

表紙

 竹原村のイシャドンは、北条藩屋代家の侍医となった篠勢玄蕃(1718年没)を祖とする篠塚家が明治まで医家として続いた。天保12年(1841年)に没した周伯は岡田村のイシャドン山口家からの養子で、その妹は丹生村のイシャドン加藤家に嫁いでいる。子息生庵の妻は洲崎村のイシャドン池田家の女性であり、姻戚関係で作り上げられた医師のネットワークがみえる。生庵(1906年没、75歳)は明治天皇の侍医となった漢方医浅田宗伯の門人で、梅毒下しを開発したという。丹生村の加藤家も古いイシャドンとされ、名主家でもあった。縁戚関係にある安房地域の医家は多いが、明治時代に藤左衛門(1896年没)で医業を終えた。大崩村の高梨家からは幕末に安節(1886年没、72歳)が長崎へ遊学し、のち幕府医学所から種痘免許を受けている。その後三代続いたが、安節の長女美津は明治18年に千葉産婆学校を創立している。

134.加藤藤左衛門君墓誌原稿  
加藤昭夫氏蔵
篠塚周伯奉納灯篭(文政7年)
(館山市岡田・風早不動堂)