【4】医者どんの姿  

表紙

 村医者の多くは村の有力な家から出ていることが多く、村役人としてのリーダーシップをとる役割をもっていたり、また村の知識層でもあることから文化人としての教養を身につけ、漢詩・俳諧・儒学などを通じて、安房地域はもとより江戸をはじめ各地の文化人との交流も盛んに行っていました。その活動を示す資料も医者どんの家には残されています。さまざまな人々と交流する立場にあることから多様な情報を手に入れ、また社会の動きにも高い関心を持つ人もいました。戊辰戦争の際には安房独自の治安維持部隊である房陽神風隊の設立に参加した医師や、明治になって民権運動に参加した医師もでています。

左:140.高木抑斎作漢詩  当館蔵
右:141.高木静斎作漢詩  当館蔵
142.『近世偉人伝』(明治17年) 

 左は越後の漢学者で医師でもある蒲生精庵が、江戸時代の偉人を紹介した伝記。万延元年(1860年)以降の安房滞在中に交流を持った医師の高木抑斎や漢詩人鱸孟陽(谷向の医師鈴木道順の孫)、八幡村の名主根岸久勝など安房の人々も紹介されている。高木抑斎は文人としてまた医師として精庵との交流を持ち、子息静斎に漢方医学の教授を依頼している。

143.加藤三圭墓碑拓本(天保12年)
当館蔵
 三圭は平久里中村の名主で医師の加藤玄叔の長男。玄叔は霞石の号で文人として各地の人々と交流し、著名な儒学者大槻磐渓や漢詩人梁川星巌などがしばしば逗留している。三圭は嘱望されながらも天保12年(1841年)に20歳で没したことから、墓誌は星巌が撰文し、書家として名をなした巌谷迂堂が文字を書いている。もちろん多彩な人脈を持つ父の依頼である。
144.高梨文酬追悼句集「けふ松か枝」(明治18年)
当館蔵
 俳人として活動する医師も多い。安房で最も古い芭蕉句碑、亀ヶ原(館山市)新御堂の陰徳塚は、本織村(南房総市)の医師関口玄琳(俳号:瑞石)が主宰する竹之友連の建立で、関口家は小林一茶の房州行での立ち寄り先になっている。
 正木村の医師高梨文酬も、俳人として地元の丘連を率いて、文久3年(1863年)に正木諏訪神社での芭蕉句碑建立を主導している。十三回忌の追悼句集『けふ松か枝』には、安房地域から269人の作品が集められた。
145.井上杉長等連句扇面  
当館蔵
 一茶と交流をもち幾度かの来訪を受けている久保村(南房総市千倉町)の井上杉長は、医師としてよりも俳人としてよく知られている。
 この扇面は、井上杉長が名古屋で評判の町医者で俳人としても著名な井上士朗(1812年没)等と詠んだもので、富士の絵は杉長の門人平雄(平館の医師石井宇門)が描いている。句会の席上でつくられたものである。
146.琴棋書画図賀寿祝着  
当館蔵
 これは長須賀の眼科医上野隆卿が賀寿の祝着としてしつらえたもの。隆卿は医事のかたわら地域の文化人たちと詩文を作りあった文人であり、また有名な文人が房州に来ればすぐに会いに行ったともいう。この絵柄は古来文人が嗜むべきものとされた、琴・棋・書・画の四芸を描いたもので、自然のなかに深く身をおき、そのなかで時に琴を奏で、友あれば碁を打ち、興が至れば詩を作って書し、絵を描くという、文人たちが憧れる理想の生活を表している。

147.新製輿地全図(弘化1年)  池田定明氏蔵
 洲崎のイシャドン池田家の蔵書で、「載陽堂池田氏」の印がある。弘化元年(1844年)に美作の人箕作省吾が凡例を解説した世界地図。蘭方に関心をもち、世界にも目を広げていたのであろうことがわかる。

148.『房海兵備策』(文久3年)  
石井昌道氏蔵
 『房海兵備策』は山本村(館山市)の医師高木周岱がまとめた海防論の書。開国後の文久3年(1863年)に記された。房総を幕府の直轄とし、民間から意見具申の権限を持った監察を選任し、農民兵を採用することを提言している。

149.高木周岱書状  石井昌道氏蔵
 周岱の書状は荷物を運ぶ船に神風隊の隊員を乗り込ませる段取りを総責任者の石井石見に依頼しているもの。