コレラ事件 

表紙

 明治10年(1877年)はコレラが流行した年で、県内でも300人を大幅に超える死亡者があった。9月には鴨川町でコレラ患者がでたため、小湊の医師沼野玄昌が死者の火葬や井戸の消毒などの防疫活動を行っている。11月にも鴨川でコレラ患者が発生し隔離のために出向いたところ、玄昌が井戸に毒を入れ患者の生き胆を抜くという噂が流れ、それを妄信した住民が押し寄せ、玄昌を襲い殺害するという事件がおこった。

 玄昌は佐倉順天堂で佐藤舜海から4年にわたって西洋医学を学び、慶応3年(1867年)には幕府医学所で種痘法の技術を身に付けて、伝染病対策に取り組んでいた人物であった。事件の背景には、コレラという新しい伝染病への恐怖と不安に加え、明治維新による価値観の転換を迫られていた人々の動揺があったとされているが、また玄昌自身も近代医学の発展普及への熱意が先行していたため、人々の理解が追いついていけなかったという面もあった。

161.履歴明細書(明治8年)  
沼野健氏蔵

162.死体検査証(明治10年)  沼野健氏蔵
 広場村(鴨川市)での医療活動のために寄留していた高井村(館山市)の医師高木静斎が玄昌の検死を行った。頭部に五か所の大きな切り傷と躰部に複数の撲傷などが報告され、着ていた綿入やモンペは切れ切れだったと記されている。住民が棒や槍・鎌で襲うなかを、加茂川に逃れて水に呑まれてしまったのである。42歳であった。

163.誕生寺貫主日良追悼詩(明治11年)  
沼野健氏蔵
 小湊誕生寺貫主の日良上人が事件の翌年に贈った哀悼の漢詩と和歌が残されている。
「前原にむすぶ白露消えはてて こけの衣もぬれそめにけり」
164.殉職下賜金証(明治11年)  沼野健氏蔵
165.下賜金目録(明治11年)  
沼野健氏蔵
 公立千葉病院の所属医師としてコレラ患者の治療や防疫活動をしていたこともあり、千葉県令柴原和は規定の埋葬料・遺族扶助料のほか、内務卿大久保利通に依頼してコレラ予防非常臨時費から弔祭金を支出させ、弔慰金として125円を下賜した。
小湊妙蓮寺(鴨川市)の玄昌碑
 沼野家の菩提寺である妙蓮寺参道に、後に医師となった子息の釜吉が建立した玄昌の碑がある。また事件後遺体が発見された加茂川沿いの汐留松原には、事件に加わった加害者をはじめとする住民が7回忌の供養碑を建立した。昭和53年には新たに弔魂碑が建てられている。
汐留公園(鴨川市)の烈医沼野玄昌先生弔魂碑(昭和53年)