【1】関西から房総へ  

表紙

 天正18年(1590年)、徳川家康が江戸城に入城し、江戸は大規模な城下町へと整備されていきます。さらに徳川幕府が成立すると、江戸は政治の中心地となり、全国の諸大名の屋敷とその家臣、そして彼らの消費を賄う商人・職人が集中居住する大都市となりました。急速に人口が増加した江戸に対し、当時の関東漁業では鮮魚の供給が追いつかず、先進的な技術を持つ関西の漁師たちが、多数関東へやって来ました。これは、彼らにとって大きな利益を得るチャンスでした。

 さらに、彼らの目的は江戸の鮮魚消費だけではありませんでした。当時、関西農村では収益性の高い作物である綿作が盛んでしたが、この栽培には大量の肥料を必要とします。そこでおもに用いられたのが、鰯を日干しにして作る肥料「干鰯{ほしか}」でした。綿作の拡大により、大量に必要になった鰯を求めて、関西の漁師たちは鰯資源が豊富で未発達の漁場へと進出していきます。その範囲は、東は関東、西は九州にまで及びました。

 このような鮮魚と肥料の需要拡大という二つの要因により、関西の漁師たちは房総へと進出してきました。彼らにより、地引網{じびきあみ}や八手網{はちだあみ}による鰯漁が伝えられ、房総は全国的な干鰯生産地となります。漁師たちは、拠点となる地に集団で出稼ぎして漁を行いましたが、なかには出漁先に土着する者も現われました。土着した者たちは、地元漁業の発達などによって出漁が行われなくなった後も、漁師や商人などとして、房総の鮮魚・干鰯を担っていきました。

7.鰐口
元禄10年(1697年)
館山市・船越鉈切神社蔵〈館山市指定文化財〉