3.神官への転身 

表紙

 翌明治5年(1872年)11月楽山は神官へと転身し、官弊大社安房神社の権祢宜となった。明治8年(1875年)10月には祢宜に昇進、千葉県下の神道事務にも携わり、明治10年(1877年)には神道事務支局より生徒寮教輔を命じられ、教導職の養成にもあたっている。ところが理由は定かではないが、翌11年2月には主典へと降格辞令を受けている(明治12年7月に祢宜へ復帰)。

 以後も安房神社祢宜として、また大成教会会員や安房大道会幹事などとして活動した。明治13年(1880年)3月から10月の間には一時神官を辞め、館山町戸長を務めていたこともある。そうしたなかで、明治10年(1877年)の館山学校への学資金寄付や、明治21年(1888年)の館山町大火の際の米穀寄付など、地域への奉仕貢献にも努めていた。神職の教導職では少教正まで累進し、その傍らで作画活動を精力的に進めていたのである。

 明治25年(1892年)10月21日に川名楽山は61歳で亡くなり、館山市上真倉の慈恩院に葬られた。没後神習教会から、中教正に追補されている。子供は女子が一人であったため、養子孝雄(号耕雲)を迎え、東京に遊学させて教員とした。大津学校(富浦町)の学頭(校長)になったが、明治13年5月わずか21歳で没している。

 明治33年(1900年)には館山藩時代の友人鈴木氏の子によって、館山市沼の天満神社境内に、楽山の功績を讃える「楽山翁碑」が建てられている。

第3図 辞令「館山藩権大属」
第4図 辞令「安房神社権祢宜」
第5図 千葉県知事感謝状
第6図 館山藩川名氏墓碑 館山市上真倉慈恩院
第7図 楽山翁碑 館山市沼天満神社