2.幕末維新期を生きた仰岳 

表紙

 仰岳の生涯は、幕末という時代背景を抜きにしては語ることが出来ない。仰岳が日知館で受け持っていた講座は、長沼流兵学の他に高島流砲術があった。これは俗に西洋流の砲術とよばれるものであるが、田中藩では他に武衛流砲術、藤岡流砲術、不易流砲術といった諸流派を教学のなかに採り入れている。こうした各種の砲術が奨励されたのは、このころ欧米諸外国の軍艦が頻繁に日本海付近に出没しはじめたという社会情勢を背景に、藩のなかで軍備のあり方を新しく考え直そうとする試みがなされていたことによる。

 田中藩の海防問題の発端は、文政9年(1826年)にさかのぼる。この年、遠州榛原郡の沖に外国船が出没し、近隣の諸藩が警備にかりだされるという一件があった。これをきっかけに海防を含めた軍制の強化が図られ、安政年間には砲工を招いて大砲を鍛造するに至る。仰岳は当時足軽や鉄砲隊を率いる役職についていたことで、師範としての講義だけでなく、大砲の試射等の実地訓練にも携わった。またこれに先立つ嘉永6年(1853年)に、ペリーの率いる米国軍艦が浦賀に入港した際、仰岳は藩主正寛によばれて約一年間江戸に出向し、海防の任務にもあたっている。そもそも長沼流兵学という我が国古来の兵法理念を支持してきた仰岳にとって、西洋流の兵制の導入は、少なからぬ抵抗があって当然である。事実、藩の中でも西洋流砲術への反感があったといわれているが、にもかかわらず、あえてこれを積極的に藩の軍務のなかに採り入れようとしたところに、時代の流れを見越した、兵学者仰岳の決断力がみてとれるのである。

 明治元年(1868年)、戊辰戦争によって江戸城が開城されたのに伴い、明治新政府は徳川氏に対して静岡藩主という一大名への転落処分をとった。このことは、田中藩に安房への移封という大変事をもたらす。そして仰岳にとってもこれが人生における転換期となる。長尾藩士となって安房に移住した時を最後に、事実上仰岳の兵学者としての業績は幕を閉じ、その後は白浜の地で漢学を講じながら、明治という新しい時代の中で、地域の教育の普及に携わることになるのである。その人生は、まさに幕末から明治にかけて我が国がたどった歴史そのものであるといえよう。

左:79.裃(本多家家紋入)
右:75.白糸威二枚胴具足(藩主から拝領の甲冑)

92.呼出状
100.恩田仰岳所用算盤

裏に「嘉永5年恩田氏」と墨書があり、仰岳が勘定奉行を兼務していた頃使用していたもの。