<恩田城山>

表紙

 恩田城山は、仰岳の三男として天保9年(1838年)駿河国田中に生まれた。諱は利武、字は之貞といい、これはともに城山が13歳の時に正訥から与えられたものである。幼名は駒之助で、のち通称駿太郎と改めた。城山は号である。仰岳の子女は城山以外皆夭折したため、城山が嫡子となった。

 幼いころから父仰岳の厳格な教育を受け、安政3年(1856年)江戸に留学して、市川梅巓の下で長沼流兵学を学び、芳野金陵に就いて儒学を学んだ。

 江戸にあった城山は尊王論者の志士たちと行き来したため、3年経ったところで仰岳に呼び戻される。翌万延元年(1860年)には日知館の兵学師範となり、漢籍や西洋流砲術の教授も行った。その後兵部省三番大隊屯所にはいってフランス式銃隊法を習い、また明治3年(1870年)に家督を継いでからは、軍務館に属し、長尾藩権大属に任じられるなど、父と同じく兵学者の道を歩んだが、その期間はさほど長くはなかった。

 廃藩となったのは城山が34歳の時で、その後は白浜に帰って、むしろ教育者として人生の大半を送ることとなる。明治6年(1873年)、白浜小学校の開校と共に教員となり、明治28年(1895年)までの22年間をここで務めた。同小学校を退職した年に、今度は旧長尾藩士市野義雄が北条に創設した私塾「日知学舎」に招かれ、20年にわたって漢学を教えている。大正4年(1915年)再び白浜に帰った城山はその4年後に82歳で没し、父の墓所である杖珠院に葬られた。

恩田城山
114.慶応二年惣順席帳
115.軍務館順席帳

左:112・右:107.恩田城山書

94.恩田城山書
98.恩田城山書

上:104.文机
中:文机裏面墨書銘
下:文机裏墨書

44.『聿脩遺談』(恩田城山著)