4.『刀匠石井昭房伝』(自伝) 

表紙

 私は明治の末、旧館野村安布里65番地の小川の辺りで、石井善次郎の次男として、42年10月3日に生れました。

 母はつねと言い、姉と兄、それに弟が二人おりました。末弟は少年時に亡くなりました。

 祖先は石井玄昌と言い、医者であったそうです。今もなお、その薬箱なる物が残っております。その為、先祖の名を取って、兄を玄作、私には昌次と名付けたそうです。

 幼少の頃の私は、体も余り丈夫ではありませんでした、小学校は山本尋常高等小学校(現在の館野小学校)に通いました。少年時代は悪戯も人一倍で、木刀などを作っては振り回して遊んでおりました。殊に金物いじりが好きで、カマドの中や七輪に火を起こしては、太い針金などを焼いて、小刀や箭{やのね}、剣などの格好をしたものを造っては喜んでおりました。

 大正13年3月24日、山本小学校を卒業すると、翌日、(刀にご縁のある)成田のお不動様に卒業旅行へ行きました。そして日をおくことなく、27日には山本の鶴岡豊広という鍛冶屋の所へ年季奉公に行ったのです。

 この鍛冶屋の先代は、江戸の刀鍛治、天野国広の弟子だったそうですが、私が年季に行きました頃は震災直後のため、鑿{のみ}や鉋{かんな}を多く造っておりました。

 その後昭和4年に徴兵検査を受けるまでの6年間、年季を務め上げ、さらに翌5年3月までお礼奉公をいたしました。この間、夏は4時、冬は5時に起きて修業に励みました。仕事だけでなく、親方の足腰や肩を揉むことも3年ほど続きました。

 その修行の厳しさを今日の若者たちにお話しても、とても信じないことでしょうが、こうして、鍛治としての基礎とともに忍耐力を身に付けたわけです。

 その頃、漸次不況の波は安房にも押し寄せてきまして、十数人もいた兄弟子たちは、一人去り二人去りして、ついには私一人になってしまいました。

 私は一番下でしたので、兄弟子たちの向槌{むこうづち}を打つのが専らの役目でした。兄弟子たちは横座に座り、鞴{ふいご}を使って物を造ると言う仕事が覚えられたのですが、一番下の私には向槌を打ってくれるものがおりませんでしたので、肝心な仕事を覚えることが出来ませんでした。

 奉公は苦しくとも我慢できましたが、仕事を学べないということが私には耐えられませんでした。そんな訳でお礼奉公を終えると親方には気の毒だと思いながらもそこを辞して上京いたしました。たまたま東京で火造専門の仕事をしていた義兄や弟がおりましたので、そこを訪ね、改めて年季奉公を始めたのです。

 当時、刀剣は明治の初期に廃刀令が出されてより、すっかり衰退してしまい、「需むる者無ければ、造る者これ無く」という有様で、それまでの刀工たちも転業せざるを得ないという厳しい状況でした。

 それは残されたわずか二・三人の者たちの手で、何年かに一振りの刀を造るのがやっとという位にまで衰えてしまったのです。このままでは伝統ある日本刀製作技術も遠からず絶えてしまうと嘆き憂いておりました。

 しかし昭和6年、満州事変が勃発すると、日本刀はその真価が再度認められ、需要が高まりだしました。軍部は必要性に迫られ靖国神社境内に鍛刀場を設置し、盛んに軍刀を製作するようになりました。

 後に私の師匠となる栗原彦三郎先生は、かつて勝海舟先生の屋敷のあった、赤坂氷川町28番地にお住みでしたが、時勢を鑑みその邸内に「日本刀鍛錬傳習所」を開設せられ、別府清行氏、笠間繁継氏等の諸先生方を師範として招聘し、門弟を養成しておられました。

 このことを下谷で刀剣商を営んでいた佐藤束という人から聞きました。以前自己流で造った刀剣を見せたところ刀鍛冶としての素質がありそうだといわれていたことがきっかけだったと思います。私は佐藤氏に栗原先生の家に連れて行ってくれるよう頼みました。そして栗原先生に是非弟子に加えてくれるように丁寧にお願いしましたが許されませんでした。

 どうしても諦め切れない私は再びお伺いし、入門を懇請したところ、漸く許されて、10年1月1日より内弟子として住み込み、長年の夢であった刀鍛冶修業が始まったのです。

 栗原先生のお屋敷は、上に真田家の菩提寺である盛徳寺。そのまた上が氷川神社。前の坂道を曲がると有名な南部坂。向かい側が三井家の邸宅というとても静かな所でした。

 師の道場には「日本刀鍛錬傳習所」と欅の香りも芳ばしい、厚さ1寸8分、幅1尺8寸、長さ11尺の板に、時の内大臣斎藤實殿の書が深々と刻み込まれており、訪れる人々の目を見張らせました。この看板を説明するには、先生のご身分について一寸触れなければなりません。

 先生は栃木県阿蘇郡新合村閑馬の農家に二男として生まれました。足尾銅山の鉱毒事件で有名な田中正造翁に愛せられ13歳の頃、大隅重信侯の所に連れていかれ、老侯からも可愛がられたそうです。

 後には東京市の市議に出馬し、また、民政党から衆議院議員に3期連続当選。最後は国民同盟の足立謙蔵先生についておられました。そんな訳で私がおりました時分にも、名士の方々がたくさんお見えになりました。時の斎藤首相とも早くから懇意にされていました。

 あるとき先生が「大臣になりたい」と言ったところ、首相は「今時平大臣ぐらいになったとしても、2・3年も経てば忘れ去られてしまう。それよりも君は日本刀が好きなだから、日本刀の復興に尽くしたほうが国家のためになるだろう」と言われ、大きく「日本刀鍛錬傳習所」と書いて下さったのだと、先生の奥様よりお聞きしました。

 私が入門した当時、師範には笠間繁継先生が指導に来ておられました。兄弟子に秋本信一氏、今野定治氏がおられました。皆鍛冶屋の出身でしたので、一年余りもすると良い刀が出来るようになりました。

 笠間先生はまもなく伝習所を辞し、秋本兄も外に出られたので、今野氏と私とが師範役を務めるようになりました。そして第2回の文部省後援の日本刀展覧会には最高の文部大臣賞を授与されました。

 昭和12年7月に日支事変が勃発すると先生は直ちに軍刀修理団を組織され、9月15日、6名の者を率いて奉天丸に乗り組み、神戸港から北支に向かったのです。この中には、一昨年(昭和45年)亡くなられました社会党の山田長司代議士も、秘書として加わっておりました。

 太沽に上陸し、天津から保定まで軍刀修理の旅でした。ところが着いた保定は、陥落後わずか3・4日で、あまりにも危険でしたので、すぐ天津に引き返すことになりました。

 天津では 将兵の軍刀を修理しただけでなく、天津神社に奉納される寺内大将の太刀を同神社の境内で製作しました。この時、天津神社に奉納した寺内大将の太刀は、現在は東京にあります。帰路満鉄の沙河口の工場に立ち寄り、鍛刀法を5・6日間指導して帰って来ました。

 翌13年1月にも軍刀修理団員として中支方面に従軍しました。そこで松井軍司令官が上海神社に太刀を奉納されることになり、大将が向槌を打って鍛え始めをしました。それ以後の鍛錬焼入れなどの行程をすべて私に任されて、代作いたしました。南京城内においても、多くの鍛刀、軍刀修理を手がけ、3月上旬に内地に帰ってきました。

 その後、兄弟子の今野昭宗氏は再び軍刀修理に行きましたが、私は残ることになりました。というのは、若林壽人君や宮入昭平君、降旗辰男君、その他にも大勢の新しい入門者が増えたため、師範としてその鍛刀指導をすることになったからです。

 おもしろいことにこの3人の者は皆、長野県人でした。信州は幕末時代に源清麿という刀工が出たところで、刀剣の盛んなところです。一同を使って多くの軍刀を作りました。

 昭和14年は後鳥羽天皇崩御700年祭記念に当たりました。そこで上皇を奉祀する水無瀬神宮に奉納するための太刀を奉賛会からの依頼で制作いたしました。

 同年5月に師の元を辞し、郷里に帰ってきてまいりました。そして石田の鈴木良太郎さんにお願いして、2間半に3間程の鍛錬所を開きました。最初の仕事は、西岬の池田菊之助、池田菊蔵、大木軍蔵の皆様のご依頼で、鶴谷八幡神社にご奉納する太刀を鍛えました。この太刀は朝香宮殿下御前においての斬試会で最優秀とされました。

 続いて皇紀二千六百年祭記念としまして、立田清辰県知事さまからのご依頼で安房神社に奉納する太刀を、また、香取神宮にも澤田総重宮司さまのご依頼で奉納太刀を造らせていただきました。16年の日本刀展覧会に出品したところ、私の刀が選ばれて刀匠協会から宮家に奉献されるという栄に浴しました。

 同年7月19日召集により東部第17部隊に入隊。21日には出発いたしました。8月末に満州牡丹江省大肚子川の関東軍自動車廠第2638部隊に編入されました。

 内地ではまだ残暑厳しい季節ですが、満州の夜明けは寒くて震えるほどでした、9月に入ればすぐ霜が降り、たちまちに草木の葉は真っ赤になりました。

 忘れもしません昭和16年9月5日のことです。大肚子川の兵器廠、関東軍自動車廠、貨物廠に大爆発が起こりました。凄惨を極めた事件でしたが内地には詳しく報道されなかったといいます。当時陸軍大学におられた河野庫吉氏に先年お会いする機会があり、話がこれに及んだところ、この事件のため関東軍は作戦変更を余儀なくされたほどの大事件だったとのことでした。

 満州には19年3月までおり、それから中支漢口へ行きましたが、着いた翌日に爆撃に遭い早くも3名の戦友を失いました。毎日毎夜の空襲の連続でした。

 7月になると呂ノ6144部隊に編入され、さらに前線に向かっての出発でした。岳州に着くと同時に大爆撃を受け、修理車を何台も焼かれました。激しい攻撃でしたが、敵は岳陽楼を爆撃しないとたまたま耳にしていたので、この下に潜り込んでいて命拾いしました。岳陽楼というのは日本のお寺の山門のような形をした朱塗りの立派な建物でした。この中を洞庭湖に向かって20度ぐらいの傾斜で降りられる道があります。洞庭湖はとても広く大きく、荒波も立っているので少しも海と変わりありません。ただ水が塩辛くないだけです。私は三方を海に囲まれた房州で育ちましたが、3年余り海を見ていませんでしたので、この景色に出会って何とも言われぬ郷愁を覚えたのでした。

 岳州から衝陽までが、戦争中最も苦しかったところです。省略しますが、平素ならたった1日で行ける距離を、何と1ヶ月も要したことからも、その厳しさがわかると思います。

 殺伐とした毎日でしたが湖南省を経ていよいよ南支に入りました。省部桂林は南画発祥の地で、その山容、千変万化の景観たるやとうてい筆舌に尽くし難く、実に天下の絶景です。ことに朝日山上奇岩の上より谷間の霞を照らす様、茜色に輝く夕陽に映る山容、山の端に出でし月の照らす桂江の夜景、一入の感があります。

 毎日毎回となくある爆撃下に、一寸先の知れぬ身でありながらも、もしも無事に故郷に帰れたらこの雄大な景観を刀の焼刃に現したいと間々思いました。

 満州牡丹江省では松の木を滅多に見かけませんでしたが、湖南から廣西省には松林が多く見られ、楠の大木も随分とありました。また川や湖沼には、鯉、草魚、雷魚、八目鰻などが多くいました。

 家屋は日本とあまり変わらず、二階造りや通り長屋、東屋などもあり、日本の建築法も、あるいは南支方面より伝わって来たものではないかと思いました。

 この桂林に20年7月25日までおりましたが、ソ満国境険悪なるため急遽原隊に復帰すべしという命令がでました。27日洞庭湖の近くまで急ぎ来ましたが、上流で大雨が降ったため湖水が氾濫し、昨年来た道も遥か沖に埋没し、12.3メートルはあったはずの電柱の頭だけがわずかに顔を出していて、その場所を窺い知るのみでした。

 日に日に増水し続けるため、いくら工兵が必死に迂回路を作っても、たちまちに水没する有様でした。このため釘付けとなり20日余りもここに滞留を余儀なくされたのでした。

 もしあの時洞庭湖の増水がなければ満州の原隊に20日以内に到着し、それがかえってソ連軍の激しい攻撃にさらされ完膚なきまでに叩きのめされることになっただろうと思います。たとえ無事であったとしても、シベリアに過酷な抑留をされたであろうことを考えると、洞庭湖の上流に降った雨が、私たちを救ってくれたといえるでしょう。

 南昌において、在満州当時の第2代目の部隊長の松本貫之大佐に逢い、日本の敗戦を告げられ一同愕然としました。少し前にそのような話を耳にしましたが、皆デマだと思って誰も信じていませんでした。

 武昌に至り武装解除され、城外においてこれより捕虜生活に入りました。ところは青山鎮という揚子江岸の丘陵で、毎日ドラム缶の発掘作業でした。それは日本軍が中国人の手を使って隠匿せる物でした。

 そして明日はどうされるかと日々不安の連続でした。私は以前に軍刀修理団として従軍し日本軍の残虐を知っておりますから、人一倍に考えました。そのうちに蒋介石総統から通達がありました。「諸君は中国人民に対して残虐の限りを尽くしたが、中国人は暴を似って暴に報ゆるなかれといった孔子様の教えに従う」と言うて寛大なる処置をとられし事を深く感謝しまして、ほっとしました。

 それから10里くらい下流の両岸で道路工事などをしておりました。食料も不足で、湯呑1杯くらいのお粥しか割当がなかったこともありました。そんな時の土方は大変苦しかったのですが、中国の監督官は「君たちは腹が減っているから、そろそろとやりなさい」という人もありました。我々は甘味料など到底摂ることが出来なかったので部落に行き、干し柿を買って食べたのです。沢山買おうとすると高く言われ、少しだと安く売ってくれたのです。不思議に思うと、「沢山買う人はそれだけ財力があるのだから高く買いなさい」といわれました。

 麦畑なども広いもので、向こう端に行って来るのに半日もかかるような距離です。朝、子供たちが水牛を追いやると、牛は麦を食べながら向こう端まで行って、夕方にはちゃんと戻ってくるのです。子供たちはそれをまた迎いに行き、家に連れて帰るのです。畑には一応境があるのですが、牛はそんなことにはおかまいなく麦を食べてしまいますし、人々もまた平気で本当にのんびりとしております。

 21年4月上旬まで道路工事などをしておりました。中旬には上海に至り、下旬に佐世保に着きました。港には空母をはじめ、多くの艦艇が沈み、あるいは傾いていました。それでも6年ぶりに見る懐かしの故国、久しぶりに見る緑の野山の感激は生涯忘れることが出来ません。

 5月2日、途中で他の戦友と別れ、3名で千葉の復員援護局に行きました。千葉も見渡す限り焼け野原でした。時間が午後2時ごろでしたが、係りの人が麦飯を持ってきてくれました。おかずはありませんでしたが、それでも内地米ということで、今もってその美味しさが忘れられません。手続きを済ませ、5時半頃に家に着きました。

 両親に「今帰った」といいましたら、「ああよかった」との一言で、後は暫く言葉も出ませんでした。

 栄養失調で身体が少し弱っておりましたので、その年は静養をしておりました。ところが仕事もしていないのに、事業税として復員時にもらった100円ほどのお金を取られてしまったのには、驚きました。

 当時まだ私は独り者でしたので、家の世話になっておりました。幸い身体は回復し丈夫になりました。しかし、本職の刀を打つことは許されていませんので、生活のために農具を造ることにしました。慣れないながらも一所懸命やって、家を建て、家内を迎えたのが44歳でした。

 昭和28年は第59回伊勢神宮の式年遷宮に当たります。そのため昭和26年7月、奉賛会から遷宮御料の御太刀4振りを制作するように下命がありましたが、これは進駐軍の特別な許可があったものです。そのとき6振り制作し、お納めした残りの2振りの太刀は現在手元にあります。

 やがて、許可を受ければ刀を造れるようになりました。とはいっても、造ってもあまり買い手がいませんでした。高くは売れず、売れたとしてもやっと研ぎ代くらいのもので、手間賃どころか材料費にもなりませんでした。

 刀を諦めかけていた私ですが、とにかく刀を造れるようになった喜びは、損得を抜きにしたものです。刀作りを我が天職と思い、戦争に助かった生命を打ち込んで、精進努力いたしました。

 社会が落ち着きを取り戻すと共に、中央において美術刀剣保存協会が出来、新作刀展が催されるようになりました。館山市においても文化祭に刀剣会が参加して刀展を開くなど、漸く盛んになってきました。

 当地方にても私のための頒布会を開催していただき、26振りくらい制作しました。しかし、この32年・33年ごろはまだ採算が取れるというものではありませんでした。32年に館山市の無形文化財に指定していただき、また、37年には千葉県の無形文化財に指定されました。

 戦後の主な作刀には、高澤吉之助氏奉納の長生郡長南町笠森観音の小太刀があります。これは同観音堂を解体して得た天正年間の古釘を以って鍛造したものです。

 また、県立長狭高校が全国高校剣道大会において優勝せる時の記念の大小の太刀などがあります。

 42年、千葉県より64万円、館山市からも同じく64万円の助成金をいただき、長年の念願でした「刀剣の鍛錬道場ならびに展示会」を開設しました。場所は金属に由縁がある金堀という地名のところです。

 そして、師匠栗原先生の道場にかつて掲げてありましたあの「日本刀鍛錬傳習所」の看板を高く掲げました。師の昭秀先生は何でも大きなものが好きで、この欅の看板も前に触れましたが11尺もあり、目方も25貫くらいあるという大看板です。師の看板を掲げるこの道場を開設でき感無量ですが、これも偏に友納知事殿はじめ、川上副知事、特に菅野儀作先生、佐藤直右先生および本間館山市長、県・市民の皆様方のご厚情の賜物と深く感謝申し上げた次第です。当日、42年11月9日、250名余の皆様方のご参加いただき、目出度く挙行いたしました。遠くは岐阜県関の藤原兼房刀匠もお見え下さいました。

 46年には、千葉県戦没者遺族会様のご依頼で、千葉の護国神社奉納の脇差を制作いたしました。

 また、47年には千葉県立上総博物館のご依頼で太刀を制作納入いたしました。

 私は刀ができるまでの鍛治修業中の約16年余は給料なく小使いで過ごし、軍隊生活の5年間の最初は1円80銭くらいの給料だったと記憶しております。長い間、自由無き生活を過ごし、いわばひねくれた盆栽のような人間で、物の用には立ちません。それが早や還暦も過ぎて、今静かに半生を省みて、今の若者の生き方との差の甚だしきにただ唖然とするばかりです。

 刀造りは自ら好んで入りし道なれば、他の刀工の真似の出来ぬような焼刃を現すべく、それには、彼の南支桂林附近の山岳の、あの幽玄なる有様を刀の刃紋に表現してこそ、35歳前後の彼の働き盛りの5ヵ年間を一兵卒として招集され、生死の巷をさまよい過ごして来た、貴き、唯一の代償たらしめんと思い、一層の研究を重ねて、恩師の名を辱めぬよう、且つ、皆様方のご期待に添うべく精進努力していく所存です。

昭和47年8月
安布里 石井昭房

(参考『館野伝説集追録』)
※原意を損ねない範囲で、人名の誤字、旧仮名遣い等の訂正、補筆をいたしました。