洲崎  

東京湾の入口で、漁業と航海の神として信仰されてきた洲崎神社があり、源頼朝伝説があふれる里「洲崎」。外房と内房の境界に位置する洲崎を歩いてみましょう。

笠掛{かさげ}エリア

(1) 洲崎神社

 東京湾の出入口を見下ろすこの神社は、古代から漁師にとっての漁業神であり、船乗りにとっての航海神だった。祭神はアメノヒリノヒメノミコトといい、安房開拓神話に出てくる忌部{いんべ}一族の祖神アメノフトダマノミコトの后神{きさきがみ}とされている。平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房に逃れたとき、当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したのは有名な話。中世には東京湾内の有力な港町にも祀られるようになり、品川神社や横浜駅近くにある洲崎神社の祭神になっている。8月21日の祭礼では、県指定の無形民俗文化財になっているミノコ踊りが舞われ、神輿が勇壮に階段を駆け下りてくる。境内にある「一宮洲崎大明神」の社号標は文政3年(1820年)のもの。拝殿の額は、文化文政期に房総の海岸警備を担当した元老中松平定信が、文化9年(1812年)に書いたものである。本殿は江戸前期の建築で市の指定文化財。背後の山は県指定の自然林になっている。隋神門脇の大きな記念碑は、大正の地震で被害を受けた栄の浦と洲崎港ふたつの港の復旧記念碑。

(2) 御神石

洲崎神社の浜の鳥居から海へ真っすぐ下りた岩場に横たわる黒っぽい石は、正月や例祭のときにはシメナワがはられる。長さ約2m30cm、幅80cm、厚みが65cmから1mほどあり、口を真一文字に結んだような裂目がある。神社の山にあった池が崩れて落ちてきたとの伝承がある。三浦半島にも同じような大きさの石があり、竜宮から洲崎神社に奉納されたふたつの石のひとつが飛んできたと伝えている。その石は横須賀市上吉井(浦賀の西)の明神山のうえに祀られ、安房口神社と呼ばれている。正面に丸いくぼみがあり、洲崎の石とは東京湾をはさんで「阿吽{あうん}」で対になるという。

(3) 富士講行者碑

 富士山を信仰して登山を繰り返し、昭和8年(1933年)に八十八回目の登山を達成した人物が、記念に建てた碑。洲崎の富士講先達をしていた鈴木伊右衛門といい、94歳のときのこと。行者名は伊行宝海という。洲崎では現在でも富士講が続けられていて、毎年8月21日の朝に、この碑の前と洲崎神社の社殿前で富士山の方を向いて「おがみ」を行なう。

(4) 養老寺

 真言宗のお寺。正式には妙法山観音寺という。安房国札観音巡礼の三十番札所で、十一面観世音菩薩が本尊。江戸時代までは洲崎神社の管理をしていた修験の寺で、役行者{えんのぎょうじゃ}という修験道の開祖が開いたと伝えられている。境内には行者の石像を祀る岩屋があり、本堂の後ろには行者の霊力で湧いたという独鈷水という井戸がある。また洲崎は源頼朝伝説が多いところで、本堂正面には頼朝が箸に使ったカヤを挿して出たという一本薄{いっぽんすすき}というカヤが生えているほか、頼朝から綿鍋という名字をもらったと伝える旧名主綿鍋家の墓地がある。本堂前には寺子屋師匠の森田三余の墓がある。明治28年没。

(5) サンノウ様

 山王様と書く。祠の中には三猿を刻んだ石宮が祀られている。猿は山王権現という神様の使いだが、申の日に行なわれる庚申信仰と結びつき、江戸時代前期には山王権現を祀って庚申信仰が行なわれていた。この石宮も江戸前期の寛文10年(1670年)に建てられたもの。現在は1月20日と6月9日にオビシャと称してサンノウサマの集まりが行なわれている。

漂{みよ}エリア

(6) 地蔵堂墓地

 墓地の最上段にあるのが地蔵堂。入口に明治37年(1904年)の子安地蔵があり、向かいに弘化4年(1847年)6月の水難者14名の供養塔がある。内房と外房の境界にあたる洲崎の沖合には、「潮の道」とよばれる急流地帯があり、経験深い漁師にとっても危険地帯だという。水難者の霊が集まって出られなくなる場所だともいい、船幽霊の迷路という伝説がある。

(7) 矢尻の井戸

 源頼朝が伊豆から安房へ逃れてきたときの上陸地は鋸南町勝山地区の竜島だが、洲崎に上陸したという説もある。それがこの下にある臥島{ガジマ}だといい、臥竜島・竜島の別名もあるという。矢尻の井戸は、上陸した頼朝が飲み水がないため、岩間に矢尻を突き立てたところ清水が湧いたという伝説の場所である。また洲崎の頼朝伝説は、ほかに頼朝の上陸を助けた漁師に平島の名字を与えたというものや、頼朝に鍋の穴を綿で塞いで食事を供して綿鍋の姓をもらったという伝説がある。地名でも、洲崎神社に参詣した頼朝が、笠を松に掛けて「あれ見よう笠掛けて」といったことから、頼朝が見た集落を「見様{みよ}=漂」、立っていた集落を「笠掛{かさげ}」というようになったという伝説がある。

(8) 水上特攻艇格納壕

 太平洋戦争中に館山周辺は軍事基地が集中的に作られていたが、洲崎の栄の浦には、水上特攻艇「震洋」の格納壕がいくつかあった。震洋は五mほどのベニヤ板張りのモーターボートで、爆薬300キロを積み、フィリピンや沖縄で実戦に投入された有人の特攻兵器。安房地方には鋸南町岩井袋を本部に1700名で構成された突撃隊があり、勝山・波左間・洲崎などに50隻が配備された。

(9) コウシン様

 漂{みよ}の庚申講の人々が祀った庚申様。庚申信仰の本尊は青面金剛で、帝釈天の使者である。そのため、ここの庚申様は柴又の帝釈天で授与されたもので、毎月8日の帝釈天の縁日にお籠もりをしている。大漁祈願をする人や、赤ん坊ができてお参りする人もあるという。むかしは「オカノエサマ」といって、ひと月おきに集まったという。庚申講はもとは、60日に一回ある庚申の日の夜に、徹夜をして過ごす風習だった。

(10) 洲ノ崎灯台

 庚申山のうえに、大正8年(1919年)12月に建設された。航路標識管理所技手の斎藤新治郎による設計。この建設以前には、東京湾へ入る船は白浜の野島崎灯台を目標に進んでいたため、暗夜などには布良崎を洲崎と誤認して平砂浦に座礁することがあった。

(11) 洲崎御台場跡と台場の石

 江戸時代の終わり頃、鎖国の日本に異国船が頻繁に現れるようになり、東京湾入口の安房や三浦には多くのお台場が築かれ、大砲が設置された。文化7年(1810年)に奥州白河藩主松平定信が警備を担当して、洲崎には5門の大砲が据えられた。その後武蔵忍藩、備前岡山藩に担当が移り、安政5年(1858年)に日米通商条約が締結されると、砲台は廃止された。「下の浜」には、二艘の船が警備の御用を勤めるために待機させられていた。お台場の石垣に使われていた石が、近くの民家の石塀に利用されている。

(12) サンヤ様

 井戸のとなりにある石宮はサンヤ様とよばれている。「三夜様」と書き、二十三夜の月の出をまって拝む「月待{つきまち}」という風習がもとのかたち。二十三日に講の人々が集まって飲食をともにするもので、全国的におこなわれていた行事である。


監修 館山市立博物館