豊房地区神余  

神余地区は、古代の安房神社とゆかりをもち、中世には豪族神余氏を生み出した。巴川の段丘に営まれた神余の歴史を歩こう。


奈良時代から平安時代の頃、安房神社に仕えた人々を神戸{かんべ}といった。巴川の中流域に住んでいたが、やがて人口があふれ上流にも住むようになった。それが神戸の余戸{あまりべ}である神余{かむのあまり=かなまり}の誕生であった。とさ。

左岸エリア

(1) 旧安楽寺墓地(平田)

 大正12年(1923年)の関東大震災で潰れるまで、真言宗の安楽寺があった。いまは自性院に合併されている。安楽寺は神余氏に忠義を尽くした家臣のために建てられたという。墓地には、神余氏の子孫で江戸時代に神余村の名主を勤めた伊佐家や、医師や学者を出した和貝家など旧家の墓がある。また大日如来を刻んだ寛永10年(1633年)の古い女性の墓石もみることができる。

(2) 日吉神社(平田)

 神余の鎮守。7月19日・20日の例祭でかっこ舞が奉納され、市指定の無形民俗文化財になっている。江戸時代までは安楽院が神社の管理をしていた。手水石は天保9年(1838年)のもので、江戸時代の名主金丸氏(伊佐氏)や村の旧家和貝家などの寄進。石工は白浜滝口の亀吉。石を運んできたのは滝口のうち横渚の久太郎とある。そのほか寛保2年(1742年)の石灯籠や、願主の名前が刻まれた力石などがある。

(3) 神余城跡(加藤)

 むかしここに薬師堂があった。墓地から登った山が神余城跡である。平安時代の終わり頃から室町時代までいた豪族神余氏の本拠。神余小学校が神余氏の居館跡といわれている。山頂は曲輪{くるわ}になっているが、周囲を土塁状のもので囲われている。その下の段に腰曲輪がいくつか造られ、東に続く尾根は堀切で切断されていて、そのむかし城であったことがわかる。山のふもとには「城之腰」という地名がある。
 入口の墓地に元禄6年(1693年)の如意輪観音がある。16人の女性の名があるので、十九夜・二十夜・二十一夜などの月待ち供養として建てたもので、女性が安産や子育ての無事を願ったものであろう。

(4) 自性院(大倉)

 真言宗。室町時代に家臣山下定兼の反逆にあって自殺した神余景貞のために立てられたお寺。もとは地蔵畑というところにあって、景貞が葬られたという「御腹やぐら」の近くに建っていた。現在の場所に出てきたのは江戸時代のこと。大正12年の関東大震災で潰れた来迎寺・松野尾寺・安楽院の3つの寺を合併している。平安時代中頃の阿弥陀如来の木像は市の指定文化財。来迎寺の本尊だった阿弥陀如来像の体内にあった鎌倉時代の水晶の五輪塔も市の指定文化財。
 境内には明治8年(1875年)の出羽三山碑がある。これは四国の弘法大師88か所巡礼と、西国・秩父・坂東の100観音巡礼の188か所巡礼も達成した記念碑になっている。となりには23人の女性が施主になって建てた元禄12年(1699年)の如意輪観音がある。神余城下の如意輪観音と同じ目的で建てられたものだろう。

右岸エリア

(5) 大山祇神社(山下)

 山下の集会所裏の山腹は墓地になっているが、その一画に大山祇{おおやまつみ}神社がある。山を支配する山の神で、かつて社殿があったというが、今は社号を刻んだ碑が残るのみ。明治20年(1887年)に内務大書記桜井能盤が書いた。

(6) 来迎寺跡入口(畑中)

 大正12年の関東大震災で潰れるまで、真言宗の来迎寺があった。いまは自性院に合併されている。入口には安永9年(1780年)の地蔵尊が祀られている。また「大乗妙典供養」と書いた西国・秩父・坂東の百観音と四国88か所を巡礼した記念の石塔があるが、年号は不明。江戸時代には日本各地の霊場を回って、大乗妙典と呼ばれる法華経を納める巡礼が盛んだった。
 ここからさらに谷の奥には、同じく震災後に自性院に合併した旧松野尾寺の墓地があり、中世の五輪塔や宝篋印塔の一部の石が残されている。神余景貞の三回忌に建てられたお堂から発展したお寺だという。

(7) 智恩寺(上の台)

 神余山という。里見義康が開いた寺。里見忠義の古文書が残されている。欄間にある竜や鶴の彫刻は初代武志伊八郎の作。
 手水石は天保12年(1841年)に奉納されたもので、館山楠見の石工田原長左衛門の作。「丸に二つ引き」の里見氏の家紋がついている。また墓地へ向かう道の入口に、「大乗妙典一字一石書写」と書いた石塔がある。白浜川下浦の2人の女性が石に経文を一字づつ書きあげ、享保13年(1728年)に神余の念仏講中の協力のもと、ここに埋納した記念。

(8) 神余村六地蔵尊(上の台)

 享保元年(1716年)に建てられた地蔵尊。「神余村六地蔵第六番終り」とあって、かつて神余のなかで六地蔵巡りが行なわれていたことがわかる。上の台のこの地蔵尊が第六番目なのだが、ほかの五ヵ所がどこかは現在のところわからない。ほぼ同じ大きさの地蔵尊は、山下集会所横、久所の堰面地蔵尊、畑中の旧来迎寺入口、旧松野尾寺墓地、上神余から畑へ行く旧道にある。これらが六地蔵に該当するかもしれない。

(9) 塩井戸(畑中)

 巴川の中から塩水が湧き出しているところ。そのむかし、神余の貧しい家で塩気のない小豆粥でもてなされた弘法大師が、川に下り杖をさして塩水を湧きださせたと伝えられている。弘法井戸とも呼ばれ、弘法大師伝説として千葉県指定の民俗文化財になっている。井戸のかたわらには明治時代に造られた石造の弘法大師像が祀られている。手水石は明治19年(1886年)のもの。かつては来迎寺が管理していた。むかしは毎年十一月に四日間、この塩水を汲んで小豆粥を煮て、大師のお像にお供えしていたそうだ。この黄色味をおびた塩水は天然ガスが噴き出しているもの。
 上流に見える塩井戸橋は石積みのアーチ式。明治44年(1911年)に架けられた。市内では犬石の巴橋とここにしかない。


監修 館山市立博物館