畑  

川のせせらぎが聞こえる山の集落「畑{はた}」

 畑地域は豊房地区の奥、南房総市千倉町と白浜町に接する山間部に位置します。平家の落人伝説もある静かな集落ですが、平成22年4月に広域農道安房グリーンラインが開通し、光ケーブルのサービスの提供などのインフラ整備が進んでいます。長尾川の上流域に位置し、豊かな水資源に恵まれていますが、川床が低いため、先人の知恵と工夫により、明治時代に灌漑用水路が敷設され、現在でも地区内に張り巡らされた用水路が水をたたえ流れています。懐かしいやすらぎの集落を探訪しましょう。

 上ノ台{うえのだい}エリア

(1)長尾三{ながおさん}神社

 50余戸での維持が困難のため、大正9年(1920年)に長尾神社・八幡神社・八雲神社の3社の合祀{ごうし}(統合)が決まり、翌10年、長尾神社の地に新社殿を造営し長尾三神社と名づけられた。

合祀記念碑:合祀の経緯が記されている。撰文{せんぶん}(文章)は豊房村鈴木周太郎、石工は田中安治郎。山川市之助、石井庄左衛門など70余名の名前が並ぶ。
水向鉢:明治39年(1906年)2月吉日。当氏子中。外 石井與助。
力石:自然石2コ。若者の力自慢や、仲間として迎える通過儀礼や成人儀礼で試された。「明治25年(1892年)8月、山川斎治」と彫られた44貫目のものと45貫目の丸石。

(2)畑小学校跡地

 昭和47年(1972年)、児童数の減少により豊房小学校に統合され廃校となった。

(3)旧道路傍の石仏

地蔵菩薩:「安永10年(1781年)丑天4月20日 願主文治郎」
馬頭{ばとう}観音: 「明治12年(1879年)10月23日。施主 石井久平・山川佐治衛門・山川金衛門」

(4)川回{かわまわ}し跡

 明治時代の川回し(河川改修)の跡。曲がりくねった川筋を直線にするため隧道{ずいどう}(トンネル)を掘ってつなげた。跡地を水田とした。

(5)石井家住宅 ※個人の住宅のため、見学には許可が必要です。

 安房地方に特徴的な分棟型{ぶんとうがた}の民家。建築年代は17世紀後半と推定。平成2年3月16日千葉県指定有形文化財建造物に指定。現在、元の所在地に解体保存されている。市立博物館本館に建築当初のイメージを再現展示している。

(6)灌漑水路開掘紀念碑

 1号地(明治13・14年開墾地)と2号地(明治32年開墾地)との間で、旱天{かんてん}(日照り)の時は余った田の水を融通することを取り決め、石井済治家の田より山川佐一家の田まで水路を開掘したという記録。大正15年(1926年)5月5日建立。請負人は神余佐藤甚吉。

 小田ノ台{おだのだい}エリア

(7)報恩碑 ※個人の墓地です。許可が必要です。

 畑地区開拓の歴史を伝える碑。古老から聞いた話では、今から1000年以上前に、新悟、萬悟、平作、野庄の4人がこの地を拓いた。野庄が石井家の先祖である。生れは遠く阿波国造{あわくにのみやつこ}大伴直{おおとものあたい}大瀧孫麻美知氏。明治29年(1896年)に石井金治が元長尾藩士で漢学者の恩田城山に撰文を、熊澤直見(旧長尾藩出身の書家)に篆額{てんがく}(題字)や文字を、俵光石に彫りを頼んで建立したとある。

(8)大六天様

 大六天は第六天とも書く。祟{たた}る神と恐れられたが、やがて仏教の守護神として信仰された。この地の大六天には河童{かっぱ}の伝承がある。以前はここに川の流れがあり、河童が人を川に引き込むなどの悪さをしたので祀{まつ}るようになったそうである。

(9)小田のお堂

出羽三山碑:出羽三山とは山形県の月山{がっさん}、羽黒山{はぐろさん}、湯殿山{ゆどのさん}の総称で、それぞれ月山神社、出羽神社、湯殿山神社の三社が鎮座{ちんざ}。この碑は寛政12年(1800年)に山川作兵衛たちが参拝を成し遂げた記念。百観音霊場(西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所)も巡礼している。
石仏:如意輪{にょいりん}観音像等の墓石がいくつかある。享保9年(1724年)のものも。

(10)川のプール

 50年程前には畑小学校にプールがなかった。そこで子供たちのためにPTAや村人が労力奉仕により、川を堰{せ}き止めたコンクリート製の25m プールを作った。

(11)庚申山(こうしんやま)

庚申講碑:下に三猿を置く石造青面金剛(しょうめんこんごう)像が祀られ、この地区で庚申信仰が盛んであったことが窺われる。
富士講碑:庚申碑に並んで浅間{せんげん}様が祀られている。安房に多い山包講{やまつつみこう}。「富士講 明治5年(1872年)壬申2月吉日 村役人石井常右衛門、同瀬戸村山川仙兵衛、先達慶行真月(青木甚左衛門)、世話人石井長左門・・。長狹郡仲居村石工儀助」

(12)八幡神社跡

 藪に埋もれる手水鉢、石段、イチョウが名残をとどめている。

 向台{むかいだい}エリア

(13)どうめの滝

 長尾川の源流といえるこの流域は水流が豊かである。せせらぎの音が絶えることがない。季節によって滝から水煙が高く立ち上り、それを見た村人たちは、河童が火を燃していると噂したという。また、寒い日に河童が火を貰いに来たという言い伝えもある。知る人は知る隠れポイント。

(14)瑞龍院{ずいりゅういん}  ※参拝は事前の許可が必要です。

 天正5年(1577年)開創。猿鹿山{えんろくざん}瑞龍院。開基{かいき}は里見義弘。瑞龍院は里見義弘の院号。開山は角岩麟藝{かくがんりんげい}大和尚。中興八世の禅海慧東{ぜんかいえとう}大和尚のとき、本堂を再建し、併せて仏具類を新調した。
開基里見義弘夫妻の位牌:義弘の妻は小弓公方足利義明の娘、義頼の母、鎌倉太平寺の住職青岳尼{しょうがくに}とされる。法号瑞龍院殿在天高存大居士 知(智)光院殿高(洪)嶽梵長大姉。( )内の文字は他の資料。
木造里見義弘公像:文化12年(1815年)10月、八世住職慧東により造立されたが、古いものは頭部のみ現存。玉眼{ぎょくがん}。
大殿再建{さいこん}棟札{むなふだ}:八世慧東が本堂を再建したときの棟札。「奉再建大殿一宇 當院八世慧東叟 寛政九(1797年)丁巳秋夷則{いそく}大吉日」とある。裏面には名主山川作兵衛、組頭石井庄左衛門などの名が見られる。
大鏧{だいきん}:法要の際打ち鳴らす内陣の鳴り物。「房州畑村鹿苑山瑞龍禅院八世慧東代 享和二壬戌三月祥日」との銘がある。
喚鐘{かんしょう}:法要の開始を告げる鐘で、文政8年(1825年)、八世慧東が江戸神田の鋳物師{いもじ}西村和泉守藤原政平に依頼して作成。瑞龍院再興の経緯が記されている。
伊八の竜:内陣欄間{らんま}を飾る彫り物。1808年初代伊八(58歳)の作。裏面に「文化五辰年霜月吉日、當院中興八世慧東代、彫工長狹郡下打墨住、武志伊八良信由作 弟子森久八」とある。脇陣の彫刻は別人の作と思われる。
石井平雄句碑:「精舎{しょうじゃ}にのぼりて秋声をきく 澄かきりすむや河鹿のゆふ流{ながれ}」。石井平雄は宇門という南房総市平館の医者。井上杉長{さんちょう}の門人として俳諧や絵にも長じていた。明治33年(1900年)、平雄の孫が建立。
出羽三山碑:出羽三山は修験道の山岳信仰の霊山で、この碑は参拝を成し遂げた記念に、天保13年(1842年)8月に建てられたもの。
如来坐像:上半身が欠失している像。残存の部分の形状から大日如来像と思われる。
延命地蔵菩薩坐像:趺座{けつざ}(あぐら)を組み左足を前に垂下{すいか}する延命地蔵の形。「文政11年(1828年)戊子11月楨日造立之」。与右衛門母、惣兵衛妻、与左衛門妻、伝七妻など向台地区の女性の名が刻まれている。
歴代住職の墓:裏山の向山墓地に向って険しい道を進むと、歴代住職の墓所が2箇所ある。手前の墓所には、中興八世慧東の無縫塔{むほうとう}を始め13世までの墓がある。無縫塔は、僧侶の墓に使われる石塔。塔身が卵形なので卵塔{らんとう}とも呼ばれる。一般に墓場のことを卵塔場{らんとうば}ともいう。

(15)伝里見義弘夫妻供養塔

 向山墓地の無縫塔8基が並ぶ左端に宝篋印塔{ほうきょういんとう}が2基あり、里見義弘夫妻の供養塔、あるいは分骨墓ともいわれている。片方には「道□?妙阿禅尼 天文25年(1556年=弘治2年)」の銘が読み取れるため、別人の供養塔か逆修塔との説もある。また地元では「髪塚」「ラントウバ」とも呼ばれる。

(16)八雲神社跡

 里見義弘の供養塔の奥、楠の木の先が八雲神社の跡地。

 越地原{こえちはら}エリア

(17)越地原観音堂

 越地原{こえちはら=ケイジッパラ}のお堂とも。現在は祭礼等も行なわれていないが、安房の観音の御開帳の干支である丑や午歳の仏具があることから、昔は地区の人々の篤い信仰をあつめていたことがわかる。
鰐口{わにぐち}:「観音堂 安永3(1774)年午2月」
双盤{そうばん}:「宝暦7(1757年)丑7月日 房州安房郡畑村内越次原 観音堂若衆中」
力石:自然丸石3コ。手をかける窪みがある。
手水石:「漱盤 文政8(1825年)酉年9月吉願日 願主佐吉 當台中。
墓石:堂守の僧侶のものと思われる無縫塔「元文6(1741年)酉年 清山知浄上座品位」や「天保9(1838年)戌天 空心沙彌{しゃみ}位」などの墓石が散在する。


監修 館山市立博物館