諏訪神社  

正木諏訪神社の概要

 館山市正木の諏訪山の頂上にあります。延喜{えんぎ}元年(901年)の創建で祭神は建御名方命{たけみなかたのみこと}。大国主命{おおくにぬしのみこと}の第2子と言われ、下宮{しものみや}には大国主命が祀られています。創建当時、諏訪山の麓の集落は白浜郷と呼ばれ、村人は半農半漁の生活を営んでいましたが、しばしば大荒波に襲われその被害に苦しんでいたそうです。延喜元年正月8日の夜に、ある村人の夢に信濃国の諏訪大社の神様が現れ、村人たちが一心に祈ったところたちまち大荒波は静まったので、以来、村人たちは霊験あらたかな諏訪の神様をこの郷にお祀りして、産土神{うぶすながみ=氏神様}として千百年余り崇拝してきました。里見氏・徳川氏からも社領3石を安堵され、明治6年には郷社に列せられるなど、この地区(岡・本郷・川崎・西郷{にしごう})では最も由緒深いお社です。9月27日の例大祭に川崎の八雲神社の御輿が渡御するほか、3人の雅楽師による雅楽が奉納されます。江戸時代にはかっこ舞も奉納されており、三匹獅子の頭{かしら}や文政9年(1826年)の銘がある太鼓の胴が残されています。

(1)社名碑

 参道から大鳥居に向かう右側に「郷社諏訪神社」の社名碑がある。関東大震災の復興に約10年間を要し、実施された事業内容が「貯水池工事・下宮新築工事・参道下水コンクリート工事 延長75間・階段コンクリート工事195段・制札場工事・大鳥居新築工事・裏参道改築工事延長105間、昭和7年7月27日竣工」とある。

(2)参道用地寄付記念碑

 大鳥居の右側に、参道及び大鳥居付近の拡張のために土地を寄付した6名の氏名と寄付坪数が記された昭和7年(1932年)7月27日建立のコンクリート製の碑(50cm×41cm)がある。

(3)二の鳥居

 御影石で大正12年(1923年)9月に建立とある。台座には前面に「奉納」、後面に「那古町正木・平野○○・石井○○・鈴木○○」とかすかに判読できる。関東大震災の年月に建立されていること、倒壊等による損傷痕が見当たらないこと等から、倒壊しなかった強運の鳥居か、建立準備中だったものだろうが、定かではない。

(4)大塚山古墳の石宮

 東屋近くの椎の根本にある石宮は、正木岡地区の大塚山古墳(ひょうたん塚)の頂上にあったもので、昭和30年の中ごろに参道横に移転し現在地に安置された。祭神等の詳細は不明である。

(5)伊勢参宮資本金奉納記念碑

 「奉納永代資本金30円 当区岡伊勢参宮一行」の記念碑がある。裏には同行者30名の氏名と、「明治40年(1907年)4月、熊澤直見書(長尾藩藩士(12)項参照)」と記されている。伊勢参宮は、熊野参宮と同じように全国的に人気の高いお参りで、江戸後期頃から講を作っての伊勢参宮が盛んになったといわれている。

(6)金精様{こんせいさま}

 灯篭に「講中」と記され、その奥に金精様と呼ばれる石宮がある。金精様の信仰は、子孫繁栄を願い、性器をかたどった石や木を祀る民族神信仰といわれている。現在、当宮に石棒{せきぼう}は残っていない。また、ここが浅間様と呼ばれていたという証言もある。

(7)富士講祠{ふじこうし}

 明治18年(1885年)4月、正木村内の富士講社(山三講と思われる)の人達が建立したもので、社長(先達{せんだつ})・世話人・村内講中の23名の名前が刻まれている。石祠を通してその向こうに富士山が望見できる向きで建てられているが、現在は自然林に阻まれている。

(8)芭蕉句碑

「此{この}神も いく世か経なむ まつの花 芭蕉翁 文酬{ぶんしゅう}敬書」とある。裏面には、文久3年(1863年)3月に建立とあり、地元の宗匠雨葎庵{うりつあん}三世・高梨文酬が率いる正木村の丘連{おかれん}中の俳人、諏訪神社の神主関風羅{ふうら}を含む18名の俳号が記されている。

(9)手水石{ちょうずいし}

 神社に参拝する前にお清めの手洗いをするために作られたもので、多くは手水屋{ちょうずや}という建物に覆われている。寛政11年(1799年)に奉納された手水石で、前面には「奉納」、裏面には11名の世話人の名前が右より、「篠瀬藤蔵・平野左五兵衛・遠藤安兵衛・鈴木忠蔵・戸倉忠七・黒川喜平次・羽山常七・羽山長八・佐野半七・戸黒又四郎・嵯峨屋武兵衛」と刻まれている。

(10)石灯篭

 文化7年(1810年)、正木村の下組・鈴木甚左衛門、向組・篠瀬丈助、上組・庄司長兵衛の各名主が、一対で奉納したもの。左基礎裏面には、「江戸芝切通 富山町 石工与七」の名がある。当時すでに伊豆石などの石材は江戸に集められ、全国に発送できるシステムができていた。石工も江戸に開業して各地からの注文が江戸に集中していたが、やがて各地に石工が誕生していった。

(11)狛犬{こまいぬ}

 二匹一対で阿形{あぎょう}、吽形{うんぎょう}の形で廟の守護神として置かれる。阿形の前面には「奉納」、左面に「明和9年(1772年)壬辰2月吉祥日」とある。吽形の前面には「宝前(神前の意)」の文字が、後面には谷田{ヤタ}の「平助・長兵ヘ」の名が刻まれている。

(12)震災復興記念碑

 大正12年9月1日の関東大震災の災害から、氏子一同が諏訪神社復興に尽力したことを記念して、昭和2年(1927年)に建立された。記念碑の篆額{てんがく}・撰文{せんぶん}・書ともに、旧長尾藩出身の書家・熊澤直見{なおみ}である。長尾藩の前身である田中藩のころ、祖父は幕府の最高学府である昌平校で学んだ人物。父猶竜{ゆうりゅう}は武芸の師範であり、明治時代に大成した書家小野鵞堂{がどう}に多くの影響を与えた書家でもある。その子が直見で新しい近代社会で活躍した。

(13)諏訪神社自然林 市指定天然記念物 (平成14年指定)

 標高74mの諏訪山山頂にある社殿を取りまく諏訪神社自然林は、鎮守の森として保護されてきた。この自然林のスダジイは、幹回り約3m30cm・樹高約20mのものをはじめ、板根{ばんこん}が大きく張り出したものや、幹周り3m・樹高25mに届きそうな巨木が多い。このほかオガタマノキやヒメユズリハなど樹種が多く、鳥類・昆虫類も豊富で、房総半島を北限とする暖地性植物が多いことが特徴である。

(14)狐塚{きつねづか}の石

 昔、諏訪神社と那古寺がケンカしたときに、諏訪神社が那古寺に向けて投げつけたが途中で落ちた石だという伝説が語り継がれている。もとは山寄りに位置していたが、圃場{ほじょう}整備のため現在地に移転安置された。近くの那古小学校西側にある白岩弁天の前には、那古寺が投げた石もあったという。狐塚とは農業神である田の神の祭場として信仰される場所につけられた呼び名だとされている。

裏参道周辺

 社名碑にある裏参道は「女坂」と呼ばれ、二の鳥居から車道中間の法面{のりめん}の高い所までその一部が残っている。周辺には、「かんじん様」と呼ばれる江戸時代までの神主さんの墓所や、屋敷跡が残っている。現在、「女坂」は車道整備の際に分断されたため通行できない。車道が出来るまでは、神輿は表参道の階段を上り、帰りは裏参道を下りていた。



<作成:ふるさと講座受講生 佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義>

監修 館山市立博物館