妙音院  

妙音院の概要

 

光照山医王寺妙音院といい、館山市上真倉{かみさなぐら}に所在する高野山金剛峯寺{こんごうぶじ}直末の古義真言宗のお寺です。本尊は如意輪観音。「安房高野山」とも通称されています。里見氏と紀州の高野山西門院は関係が深いことがよく知られています。それは宿坊が上総国を檀那場{だんなば}していたため、里見氏が上総国へ進出して結びつきました。安房国の檀那場は万智院という坊でしたが、天正17(1589年)に高野山の衆議{しゅうぎ}により妙音院に変更されました。上真倉の妙音院は里見義康が高野山にある妙音院から開山として快算法印を招き、その別院としたものです。里見氏から白浜・真倉などに161石の寺領が与えられていました。江戸時代となっても徳川家から寺領75石が与えられ保護されました。伝来する寺宝に徳川家より奉納されたという『大般若経』がありますが、その背景には紀州徳川家との深い縁があったと考えられます。明治29(1896)年に上総の前羽覚忍{まえばかくにん}が発願し、裏山に四国霊場を写し「安房高野山八十八ヶ所霊場」が開かれました。大正12年の関東大震災で本堂が倒壊し、住職と檀信徒の努力で復興しましたが、昭和20年3月、米軍が落とした焼夷弾{しょういだん}により、またもやその仮本堂や庫裡{くり}、桜が焼失、かろうじて鐘楼{しょうろう}堂と山門、熊野大権現が焼け残りました。今もなお焼け焦げた旧鐘楼が戦災を物語ります。妙音院周辺の小字{こあざ}名は海蔵寺といい、古い寺があったことを窺わせます。妙音院の前身かどうかはわかりませんが、言い伝えに、もとは海蔵寺は長尾川の中流(白浜の滝山)にあり、寺の移転と同時に上流の曲田{まがった}から6軒の人が移り住み、門前6軒といわれて寺の鐘つきなどをしていたといいます。今もなお子孫という2軒が住んでいます。

(1)手水鉢{ちょうずばち}

安政2年(1855年)に上真倉村の人々が寄進したもの。当時の住職堯奠{ぎょうてん}や、大檀那杉田をはじめ世話人の名が刻まれている。

(2)柴燈護摩壇

仮本堂の前に「柴燈護摩壇{さいとうごまだん}と彫られた石柱がある。柴燈護摩とは野外で焚{た}かれる護摩のことで、その本尊である不動明王を表す梵字{ぼんじ}「カンマン」と、大正15(1926)年4月の建立銘がある。現在の柴燈護摩法要は、正月の第3日曜日と5月の第4日曜日の2回修せられて、5月には火渡りも行われ、善男女人で賑わう。

(3)本堂跡(仮本堂)

現在の仮本堂の位置はもともとの本堂があった所。間口8間、奥行6間の本堂は大正の震災で倒壊し、その後、檀信徒の協力で現在の釈迦堂のところに仮本堂が建立されたが、第2次世界大戦のとき仮本堂・庫裡{くり}・諸堂を焼失。再建されないまま今日に至っている。現在の仮本堂には本尊の如意輪観音を中央に、向かって右に弘法大師、左に不動明王が安置されている。

(4)伊藤思楽句碑 

館野村腰越の伊藤林蔵(号 思楽)が、境内整美のため、桜・南天を寄贈植樹した時の記念句碑。明治37年(1904年)3月に建てられたが、思楽は翌年に66歳で没した。

(5)仮薬師堂(旧鐘楼) 

鐘楼は昭和20年3月の空襲で茅葺{かやぶき}の屋根が被焼し、梁{はり}や桁{けた}は黒く焦げたがどうにか焼け残り、それを薬師堂に改築した。江戸期の銅造薬師如来坐像を安置する。安房国薬師如来霊場西口4番札所として、寅歳と申歳の10月にご開帳される。

(6)釈迦堂(回向堂) 

震災後に仮本堂を建てたところで、回向{えこう}堂と呼ばれていた。厨子{ずし}の中に釈迦如来、客仏として阿弥陀如来、脇仏として、文殊菩薩・普賢菩薩が祀られ、泉慶院(5番札所)にあった薬師如来もここに祀られている。釈迦堂裏や庭先などに中世の宝篋印塔{ほうきょういんとう}の基礎が残存する。ここで修験練成道場関東二實塾が開講される

(7)稲荷大明神(天神様)

境内北西山麓のやぐらの中に石宮が安置され稲荷大明神と呼ばれている。石宮の蓋{ふた}には梅鉢{うめばち}紋があり、中に公家風の坐像が納められている。石宮の側面には、23世住職以豊が発願主{いほうほつがんしゅ}となり、筆弟子{ふででし}たちが助願{じょがん}となって、嘉永5年(1852年)2月25日の950回忌に筆恩{ふでおん}を感謝して建立したとある。この950回忌は菅原道真{みちざね}の忌日に当たることから、この像は学問の神様である天神像と思われる。それがなぜ稲荷大明神と呼ばれるようになったかは不明。

(8)薬師堂跡 

仮本堂左手奥石垣の上に薬師堂があった。礎石と思われる石が2基と近世初頭の石灯籠の反花座{かえりばなざ}1基が残されている。薬師堂は江戸時代造立の銅造薬師如来坐像を祀った三間四方の堂だったという。老朽化で倒壊し、震災後建てられた仮本堂に像を安置した。現在は焼け残った鐘楼堂を仮薬師堂にして、そこに祀っている。

(9)杉田家の墓

住職の墓よりも一段高い奥に墓所が位置する杉田家は、妙音院の大檀那だった。先祖累代の墓が荒れているのを嘆いた杉田佐伝治と惣左衛門が、昭和5年(1930年)に整備・供養したもの。明治以降の杉田家の墓は近くの十王堂にある。

(10)尊勝塔

杉田家の墓の右脇に位置する。仏頂尊{ぶっちょうそん}の功徳{くどく}を説く、『尊勝陀羅尼経{そんしょうだらにきょう}』が三面に刻まれている。享保2年(1717年)、了皎{りょうこう}住職の代に杉田宗左衛門夫妻の発願で修復・開眼{かいげん}供養された。

(11)薦野家の墓地

里見義弘の子で、薦野{こもの}神五郎頼俊と称した人物は、2524石余の知行地を持つ里見家御一門衆であった。その子孫の墓地とされ、今も末裔とされる真倉の薦野家の方が維持している。

(12)住職の墓域

寛永4年(1627年)から昭和までの歴代住職の墓が15基並んでいる。正面三基の内中央の墓は25世辨章{べんしょう}和尚の墓で、明治31年(1898年)当院特命住職として寺門興隆に勤め、大正4年(1915年)68歳で遷化{せんげ}。左の墓は辨章和尚の徒弟辯海{とていべんかい}和尚の墓で、26世を継ぎ寺門興隆に勤め、昭和7年(1932年)55歳にて遷化。現在の寺の基礎はこの二人で創られた。右の墓の28世菊地本覚和尚も震災後の寺の復興に努めたという。

(13)地蔵尊

台座の中央に「本尊地蔵大菩薩」とある。地元の地蔵講などの講中が安置したものと思われ、20余名の講員の名がある。建立年紀は不明。「先祖代々」や「清幼童子」などの供養の文字も見られる。

(14)不動尊2体

八十八ヶ所霊場への階段に浪切不動(右側)と不動明王坐像(左側)が置かれ入口を鋭い目線で見つめている。明治30年、高村光雲門人で郷土の石工俵光石{たわらこうせき}の作。寄進者は浪切不動が下町の高橋徳太郎、不動明王が楠見の杉田きせ・渡辺たよ・俵かね・小高れんである。

(15)熊野大権現

当院の境内鎮守である熊野大権現は、八十八ヶ所霊場の裏のほうに祀られていたが、昭和15年現在の地に移された。5月の火渡りでは、護摩修行の無事を祈って社前でお祓{はら}いをする。社殿の前に嘉永元年(1848年)に奉納された手水鉢{ちょうずばち}がある。

(16)七福神

7人の福徳の神、大黒天・恵比寿・毘沙門{びしゃもん}天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋{ほてい}を祀る。昭和58年、荒れていた八十八ヶ所の霊場を市内宮城県人会や地域の檀家などが修復したときに、新たに祀られた。

(17)石柱

地蔵尊を載せた2本の石柱に、館山・千倉・鋸南・富浦等の信者の名前と金額が刻まれている。目的や年紀は記されていない。

(18)船乗地蔵

船べりに「朝夷郡平舘{へだて}区大師講中」と刻まれている。また伝来の『勧進帳』には「東京市浅草区大乗院住職守屋大暢」とある。

(19)安房高野山八十八ヶ所霊場

明治28年(1895年)、上総の老女前羽覚忍の発願により、24世住職山縣敞暹{やまがたしょうせん}が勧進、近隣の人々の浄財を受け完成。翌年高野山々主を招請して開眼{かいげん}された。しかし終戦直前の空襲で寺は焼け、八十八ヶ所霊場も荒廃し埋れてしまった。昭和58年に宮城県人会と檀信徒により修復復興された。霊場の出発点には出生門があり、八十八ヶ所には弘法大師の像が祀られ、「褌祝{ふんどしいわい}」「女の大厄」「男の前厄」など人生の節目が表示がされている。34番の「身替(みがわり)大師」は唯一の行者姿。88番には、彫物師後藤利兵衛義光の名があり、波の彫刻が施されている。

(20)吉野桜百本植付記念碑

明治32年(1899年)、東京の新井善司と鳥居半右衛門が桜百本を植樹した記念に建てた。その後当院は桜の名所として知られるようになり、民謡「館山小唄」でも「春は妙音院花どころ…」と歌われるほどの賑わいになった。

(21)オハツキイチョウ

山門右手のイチョウは幹周2.6m、樹高約20m、樹齢約100年の「オハツキラッパイチョウ」。イチョウには雌雄があり、普通の雌には、葉と別にギンナンが実るが、オハツキイチョウは葉の先にギンナンが付き、ラッパイチョウは葉がラッパ状に丸まるイチョウの変異種。妙音院のイチョウはその両方の特徴をもつ大変珍しい樹。


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