金蓮院  

金蓮院{こんれんいん}の概要 

館山市犬石にあり、真言宗智山派金剛山慈眼寺{じげんじ}金蓮院という。本尊は大日如来、平安時代に造立された木造地蔵菩薩像が安置される。開創は不明で、江戸初期に頼忠{らいちゅう}が中興している。安房国札観音霊場の第29番で、安房国88か所弘法霊場(天正10年(1582年)制定)の第5番。文政11年(1828年)に本堂が17世賢瑜{けんゆ}によって再建された棟札がある。本堂の欄間にある龍の彫刻は、作風から武志伊八郎初代信由(1751年~1824年)の作と見られるが、本堂再建と年代は合わない。二代目信常との合作か。また長尾藩の兵学者で、後に白浜に残り漢学の教育者として、明治の時代を過ごした恩田城山{じょうざん}(1838年~1919年)の「忍耐」の書額が掲げられているほか、元文元年(1736年)の願主智円(白浜根本)・施主順礼講中(白浜塩浦)が奉納した88か所の篇額{へんがく}もある。当寺の山門は、犬石の語源とかかわる本堂裏の「飛錫塚{ひしゃく}」と旧観音堂を正面にして建てられているため、本堂より少し右側を向いている。観音御詠歌は「ずんと入り 見上げて見れば飛錫塚{ひしゃくづか} 極楽浄土は 犬石の堂」

「犬石伝説」

古文書によると、文治元年(1185年)、頼智{らいち}という高僧が行基{ぎょうき}作の観音菩薩像を携えて、伊豆から海を渡り平砂浦{へいさうら}へ着いた。東の方が明けて来た時、1匹の白犬が現れ頼智の法衣を引いて東の方へ導くと、金剛山のふもとまで来て犬は動かなくなった。頭をなでると犬ではなく石だったという。犬石の地名の始まりと伝えられている伝説である。犬石には白石・犬尾という地名もある。

 

(1)山門

密教系の寺院は元来山地に築かれたので、伽藍{がらん}が直線状に配置される特徴がある。観音ご詠歌に、「ずんと入り見上げて見れば飛錫塚」とあるように、飛錫塚に向かって一直線にのびる参道に山門がある。形式は四脚門{しきゃくもん}で「慈眼密寺」の掲額{けいがく}がある。

(2)青面金剛{しょうめんこんごう}庚申塔{こうしんとう}

庚申{かのえさる}の日に昼夜眠らず謹慎して過す道教の信仰をもとにする庚申信仰の本尊。この石像は長須賀の石工鈴木伊三郎の作。基壇正面の三猿は御幣{ごへい}を担ぎ扇子{せんす}を持った万歳師{まんざいし}を先頭に、米俵と鶏をのせた荷車を二猿が引く。一方は扇子を掲げ鼓舞している。夜明けを早めて、庚申{こうしん}明{あ}けを待ち望む庶民の願いが表わされている。犬石村の庚申講中で天保3年(1832年)に寄進したもの。

(3)延命地蔵

新しく生まれた子を短命・夭折{ようせつ}の難から護るという地蔵で、天明6年(1786年)建立の半跏坐像{はんかざぞう}である。

(4)十一面観音像<三体>

十一面観音は、救済者としての菩薩の能力を十一の顔<菩薩{ぼさつ}面3、瞋怒{しんぬ}面3、狗牙上出{げじょうしゅつ}面3を前部に、大笑{たいしょう}面1を後部に、仏面1を頂上に>として頭上に配されている。3体のうち左立像の台座に「犬石 蒲生講中 世話人中」と彫られている。

(5)島田楽山碑

享和1年(1801年)生~明治13年(1830年)没。犬石村名主。新井文山などに学んだ後、17歳で江戸へ遊学した。安政年間に米艦が平砂浦に碇泊{ていはく}したときには通訳を依頼されている。隠居後は近隣子弟に学問を教えたが、黄疸{おうだん}病で没した。80歳。碑は恩田城山の撰文。23世田中良範の発起により犬石中里区民59名が建立した。

(6)伊藤利右衛門墓碑

文政9年(1826年)生~明治22年(1889年)没、64歳。犬石村の人。幼少より四書五経を学び、明治6年に犬石村などの平砂浦の村々が相浜{あいのはま}村を相手に平砂浦の浜境界について紛争したとき、犬石村代表として裁判に参加した。墓碑は明治26年に建立された。

(7)手水石{ちょうずいし}

犬石村の仁兵衛が、寛政11年(1799年)に寄進したもの。

(8)宝篋印塔{ほうきょういんとう}

宝篋印陀羅尼{ほうきょういんだらに}経を納めた塔。塔身に金剛界四仏{しぶつ}の梵字{ぼんじ}が刻まれている。笠の反り具合から江戸時代後期と思われる。鉢巻石には大正12年(1923年)に修繕したことが刻まれている。

(9)大賀{おおが}蓮

昭和26年(1951年)千葉県検見川で発掘された約2000年昔の蓮の実から、大賀一郎博士の努力により発芽に成功、大賀蓮と命名され世界的に有名になった古代蓮。今では世界各地に根分けされている。

(10)観音堂

十一面観世音菩薩が祀られる安房国札観音霊場29番札所。丑年と午年に開帳される。犬に導かれて来た頼智が草庵を建て観音菩薩像を安置したことに始まる。明治39年(1906年)の焼失まで本堂の裏にあったが、明治42年、今の場所に竹原薬師堂の古材{こざい}を使って再建された。

(11)桶屋{おけや}神田惣蔵の碑

桶工の神田惣蔵は、犬石蒲生{かも}の人でタガ作りの名人と言われ沢山の弟子を育てた。その恩を受けた山荻、布良、真倉、犬石、大神宮、白浜の弟子たちが、17回忌の明治30年(1897年)に功績を称えてこの碑を建立した。明治15年(1882年)没、64歳。墓は、犬石蒲生のいちょう堂にある。神田家は今も「たがや」と呼ばれている。

(12)歴代住職の墓

中興1世で慶安4年(1651年)に没した頼忠の供養塔<元文5年(1740年)建立>ほか、元禄から慶応まで約150年間の住職などの墓20基がある。平成8年に現状に整備した。17世賢瑜{けんゆ}は小網寺にのぼり同寺34世として両寺に墓がある。住職が小網寺へのぼる出世寺と言われた。

(13)石書妙経塔{せきしょみょうきょうとう}

経塚{きょうづか}と呼ばれている一字一石供養塔である。願主の「蓮明顕實{れんみょうけんじつ}は、犬石村名主家出身で島田勝蔵という。享保12年(1727年)、郷里を出て諸国の霊山を巡り先祖の菩提を供養し、約5年半後に出家して帰郷すると、朝夕のお勤めの合間に海水で清めた小石1石に一字づつ経文を書き、享保19年に6万9千5百5石を埋めてこの経塔を建立した。延享5年(1748年)、出羽国村山郡の満願寺で亡くなっている。

(14)飛錫塚{ひしゃくづか}

頼智を金剛山の岩山に導いた犬が石になった話と別に、犬が頼智から離れないので錫杖{しゃくじょう}を振ったところ犬が消えたので「飛錫塚」と言うようになったという話もある。この下に観音堂が建てられていた。

(15)枕字石{ちんじいし}<=夜光石{やこうせき}>

元文3年(1738年)、犬石の農夫が平砂浦で3尺(90cm)ほどの石を拾い、家に持ち帰り牛をつなぎとめた。その夜牛が騒ぎ出したので中をうかがったところ石が輝き、石面には字があったので、長老、僧徒が「夜光石{やこうせき}」と名付け飛錫塚に安置したという。現在は半分ほどに欠けているが、いつのころからか「枕字石{ちんじいし}」と呼ばれている。

(16)犬石権現跡(犬石青年館)

頼智を岩山のふもとまで導いてきた犬が石になったところに、観音堂と別に祠{ほこら}を建てて犬石権現として祀るようになり、その地域を犬石と呼ぶようになったというが、別にもうひとつ地名伝説がある。昔、西岬の鉈切{なたきり}洞穴に修験僧が犬を連れて入ったところ僧は戻ってこなかったが、犬は青年館にある岩の裏の穴(危険なので埋めてある)から赤膚{はだ}になって出てきてすぐに石になってしまったという。これも犬石の地名伝説である。青年館敷地の岩の露頭{ろとう}にあった犬石権現は、今は蒲生にある犬石神社に合祀されている。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」  石井道子・加藤七午三・君塚滋堂・佐藤博明
佐藤靖子・鈴木惠弘・中屋勝義>

監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212