布良崎神社  

布良崎{めらさき}神社の概要

 布良崎神社は館山市布良{めら}字西本郷にあります。祭神は天富命{あめのとみのみこと}で、安房神社の祭神天太玉命{あめのふとだまのみこと}の孫にあたります。天富命は、神武天皇即位の始めに四国阿波{あわ}の地から、麻{あさ}と穀{かじ}(梶)の栽培に適した東国の肥沃な土地を求めて、天日鷲命{あめのひわしのみこと}の孫を伴って、阿波の忌部{いんべ}一族を率いて布良の地に上陸したとされる人です。安房地方を開拓して麻・穀{かじ}を植えながら、上総の国・下総の国へと開拓を進めていく一方、この地に残った忌部の人々と村人達は、天富命の徳を慕い、祭神として布良の集落に社{やしろ}を建てたのが布良崎神社であると伝えられています。元禄の大地震(1703年)のあとも、明治9年(1876年)の大火・明治10年の台風等の度重なる被害を受けたことから、村人達は日掛け3厘の積立てを行い、明治13年から8年間の貯金を基金にして境内を整地し、明治41年(1908年)に現在の社殿を造営しました。昭和54年には屋根の葺き替えが行われています。明治17年には郷社に列せられた古社で、例祭は7月20日前後です。

(1)旧鳥居柱

 境内入口の左側に、文政9年(1826年)2月吉日の年号が彫られた2.7mの白御影石の柱があり、貫{ぬき}穴が上部に残っている。これは現在の一の鳥居が昭和天皇在位60年を記念して立て替えられたときに残された、旧鳥居の一方の柱である。

(2)石灯籠(一の鳥居横)

 石灯籠は本来、仏堂の前で献灯するための石造物で、正面に1基だけ置かれた。やがて神社にも立てられるようになり、桃山時代からは2基1対となった。この鳥居は、大正天皇即位の大礼を記念して、地元の黒川佐吉が大正4年(1915年)に奉納した。石材に改修した跡があり左右の火袋の意匠も違っている。

(3)狛犬{こまいぬ}

 石段を挟むように左右一対の狛犬がある。台座には左に「奉」、右に「納」の文字が篆書で彫られている。昭和7年(1932年)7月に地元の豊崎藤四郎が奉納したものである。

(4)玉垣と石垣

 大正天皇の即位を記念して大正4年(1915年)に築かれた。拝殿に向い左右の親柱に「御即位記念」、右側には「大正四年七月完成、玉垣建設計画者、神田吉右衛門、青木仲右衛門、満井武平、木高三郎、黒川三郎右衛門、小谷治助、小谷安五郎」と記され、左側には、「社司・藤森齋、氏子総代・神田辰太郎、神田真吉、黒川保三、吉田徳平」とある。石垣の玉石は漁師が出漁の際に、伊豆から少しずつ漁船に積んで運んできたのだという。石垣は三州屋が積んだものである。

(5)石灯籠(二の鳥居横)

 元治2年(1865年)2月吉祥日に当社の「御宝前」に奉納された。笠の軒裏には隅木{すみき}と垂木{たるき}が細かく彫られ重厚である。2段目基壇の右側には地元の帆屋三兵衛ほか川名や正木川崎などの人14名、左側には江戸日本橋蔵屋敷の米屋久七ほか16名の願主と奉納者の名がある。裏面には石工として神余村の権四郎、滝口村の松五郎・作二の名が刻まれる。日本橋蔵屋敷は日本橋南詰{みなみづめ}にあって、河岸{かし}沿いに土手蔵が並ぶところ。享保年間から江戸の台所として栄え、活鯛屋敷と呼ばれる生簀{いけす}付きの役所が幕府の魚を買い上げていた。その頃から館山湾と魚河岸{うおがし}とは、押送船{おしょくりぶね}で鮮魚を約一昼夜で運ぶ流通ルートを確立していた。

(6)二の鳥居

 白御影石の神明鳥居は、右の柱に「御大礼記念」、左の柱に昭和3年(1928年)建立、紀元2588年の年号が刻まれている。

(7)手水石

 拝殿横に支え柱銅板葺きの手水舎{ちょうずや}の下に、奉納と記された手水石がある。天保7年(1836年)2月に願主高木氏が奉納したもの。

(8)磐座{いわくら}

 一の鳥居を過ぎて左手の女坂上り口に独立した岩があり、磐座{いわくら}と言われている。岩の頂上部に直径10数cm・深さ数cmの杯状穴{はいじょうけつ}(くぼみ)が数個あり、古代の祭祀跡と言われている。

(9)手水石(末社前)

 末社参道に置かれ、正面に「奉納」、右面に「明治三十二年(1899年)八月吉日」と刻まれている。

(10)やまずみ様(末社)

 末社として、大山祇大神{おおやまづみのおおかみ}・安産大神・琴平大神・浅間大神・稲荷大神・御隠居大神・安房大神が祀られている。祭神の詳細は不明だが、節分に扉を開けて地元の人々が豆をまく風習がある。木造のお社が老朽化して昭和54年に建て替え、鳥居も改修した。

(11)満井{みつい}武平頌徳碑{しょうとくひ}

 満井武平(1953年-1911年)は明治23年から千葉県議を二期務め、34年には42歳で富崎村長となり、布良漁港の防波突堤建設や布良崎神社の現社殿造営に尽力した。碑には「関東大震災で布良漁港が八尺も隆起し、舟の出入りができなくなったが、房州42か所の漁港・船曳場{ふなひきば}のうち、県営の復旧工事として布良漁港が震災の3周年目に復旧できたのは、採鮑業の利益の積立金2万円を県に寄付したことと、明治33年・34年に武平の努力で防波突堤をすでに築いていたからである。ここに布良漁業の復興を誓い、布良漁村の真髄を確立する決意を示す。漁{すなどり}の途{みち}し絶えなば吾が邨{むら}は 人も絶えなむ邨も絶えなむ」とある。昭和2年(1927年)に東京の書家諸井華畦{もろいかけい}が書いている。華畦は、明治から昭和の書道会で一大勢力となった「春洞流」の西川春洞に師事、高弟6人に入る女流書家。同じ書家で夫の諸井春畦{しゅんけい}と共に、中国の古碑法帖{ほうじょう}研究の第一人者である。

(12)石灯籠(女坂上)

 通称女坂の石段の上にある。「常夜燈」として寛政11年(1799年)7月7日に奉納された。基壇裏面に願主・小谷源右衛門の名、側面に地元の11名、右基壇裏面に地元9名の奉納者名がある。

(13)駒ケ崎神社

 布良の字{あざ}鯨山、男神山{おがみやま}の麓にある。祭神は厳島{いつくしま}大神と海祇{わだつみ}大神で、由緒は不明だが地元では「じょうご様」と呼ぶ。漁師の信仰は絶大で、三浦半島まで及んでいる。新造漁船の神事では、神社前の海上で建材の一部を海に浮べて左に3回廻り、安全と豊漁の祈願がされる。神社の裏手には海蝕洞が2つあり、庚申塔と不動明王が祀られるが、詳細不明。

(14)男神山{おがみやま}と女神山{めがみやま}

 灯台がある山が男神山で、国道寄りの山が女神山である。阿由戸{あゆど}の浜に上陸した天富命{あめのとみのみこと}が、男神山に天太玉命{あめのふとだまのみこと}、女神山に妃の天比理乃咩命{あめのひりのめのみこと}を祀ったという。開拓の歩を進めるにあたり、上{かみ}の谷{やつ}と下{しも}の谷{やつ}に社{やしろ}を移し、さらに神の谷(現安房神社の地)に社を造営したと伝えられる。阿由戸の浜には、天富命の足洗い岩・神楽岩{かぐらいわ}などの伝承がある。

忌部{いんべ}とは

 『古語拾遺{こごしゅうい}』によると朝廷で祭祀{さいし}を司{つかさど}った一族で、祖神の天太玉命は天照大神の岩戸開きや天孫降臨の五伴神{いつとものかみ}の一人であり、大和朝廷の王権確立に大きな役割を果たした。忌部氏には宮廷祭祀に必要な祭具や物資を献納する諸族がいるが、天富命は、四国阿波{あわ}から安房へと土地を開拓して麻・穀{かじ}を植えていき、安房忌部の居る所を安房の郡{こおり}、良い麻が育つ所を総{ふさ}の国と名づけた。

☆一の鳥居と二の鳥居の見通し線上に富士山を望むことができ、5月下旬と8月上旬には富士山頂に太陽が沈む雄大なパノラマが楽しめる。


<作成:ふるさと講座受講生 佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義>

監修 館山市立博物館