小網寺  

小網寺{こあみじ}の概要

 館山市出野尾字小網坂にある真言宗のお寺で、和銅3年(710年)の創建と伝えられています。山号は金剛山、不動明王が本尊です。かつては密教道場として隆盛しましたがその後荒廃し、文明5年(1477年)に宗秀上人が中興開山として再興しました。里見氏からは15石、江戸時代は幕府から25石の寺領を与えられ、西岬・神戸地区を中心に33か寺の末寺をかかえていました。境内には安房国札三十四観音の第32番札所にあたる観音堂があり、本尊の木造聖観音立像は平安時代後期の作。また鐘楼には国の重要文化財に指定されている鎌倉時代の梵鐘があり、銘文にある「金剛山大荘厳寺」は小網寺の古称だといわれています。大檀那として矢作助定・大田末延の名があり、製作者は物部国光という当時一流の鋳物師{いもじ}です。また寺宝として県指定の密教法具21点があります。鎌倉時代のもので、横浜の金沢称名寺の開山審海上人ゆかりの品です。寺の北、通称法華谷{ほっけやつ}には2基のヤグラがあり、弘法大師の修行跡と伝えられています。

(1)寺号碑

 総高3mの石柱正面に「新義真言宗智山派金剛山小網寺 智山派管長大僧正栄豊謹書」、裏面に「大正13年5月20日 当山古称大荘厳寺」、右側面に「小網寺西光寺合併記念」とある。岡田地区にあった西光寺が大正9年に火災で焼失し、小網寺も大正12年(1923年)の関東大震災で一部倒壊し被害を蒙った。そこで、震災の翌年に西光寺を小網寺と合併して再建した記念に建てられたもの。智山派本山智積院の第52世青木栄豊は、南房総市千倉町瀬戸に生まれて宝珠院談林所で学び、宝珠院住職から昭和2年頃に智山派管長になった。その頃に建てられたことになる。

(2)地蔵菩薩半跏{はんか}像

 仁王門手前にある。念仏講の男女によって宝暦3年(1753年)3月24日に奉納されたものである。

(3)馬頭観音像

 地蔵尊の左にあるもので、馬の守護神とされる。大正3年(1914年)に、元名主家の山口太右衛門の寄進による。農耕や運送に活躍した馬の供養として建てられたもの。

(4)梵鐘{ぼんしょう}

 瓦葺きの鐘楼にかかる梵鐘は、鎌倉時代の弘安9年(1286年)に鎌倉の鋳物師物部{もののべの}国光が製作したもので、総高107.5cm、口径62.1cm、昭和36年(1961年)に国の重要文化財に指定されている。鐘の周囲に刻まれている銘文から大願主金剛仏子隆尊が極楽往生の世界を願って金剛山大荘厳寺に寄進したものであることがわかる。

(5)本堂前の手水石{ちょうずいし}

 文政11年(1828年)、時の住職第35世栄運のときに七五郎・新助の両名が願主となって林蔵他8人で寄進した。手水舎の寄贈は平成2年、東京山口秀男とある。

(6)本堂

 現在の本堂は明治23年(1890年)4月に、第41世栄 和尚により建設され、向拝{ごはい}彫刻は千倉の後藤義光が彫り、同25年5月に完成した。彫り物はすべてに寄付した人の名が刻まれており、出野尾・大戸・西長田・東長田・神余・笠名・高井・相浜・洲宮の人々の寄付であることがわかる。大正12年の大震災で倒壊するも、翌年に第50世小峰隆明により再建された。向拝に享保15年(1730年)の観音巡礼の御詠歌額が掛かる。

(7)石灯篭

 観音堂前にある一対の灯篭は、江戸時代の天保12年(1841年)8月吉日、地元の太右衛門ほか5人を世話人に、氏子たちによって寄進されたと書かれている。正面に永夜灯とある。

(8)観音堂前の手水石

 天保12年(1841年)9月、出野尾村の太右衛門ほか2名が願主となって、女性を含め出野尾村ほか近隣の村人7名が寄進している。正面に三巴紋と奉献の文字がある。

(9)銅造地蔵菩薩像

 銅造の地蔵菩薩像で、安永2年(1773年)9月の作。総高270cm、像高188cm。左手に宝珠、右手に錫杖(欠失)をもつ。明和7年(1772年)に本堂・仁王門等の再建にあわせ、神余村出身の僧宗真が庶民を迷いから救済し引導することを祈念して寄進を思い立ったもの。台座に当寺住職26世隆澄が、発起人宗真の尽力を讃えるとともに、小網寺再建の経緯を記している。作者は江戸神田の鋳物師多川薩摩とある。

(10)宝篋印塔{ほうきょういんとう}

 塔身の四面に文字が刻まれているが、磨耗して読み取りにくい。檀家など多くの人々の協力で出来上がった円通閣(観音堂)の落成記念の宝篋印塔である。落成したのは延享2年(1745年)9月18日とある。18日は観音様の縁日にあたる。願主は僧の某。この宝篋印塔の中にはたくさんのお経を納めてあるので、一心にお参りすれば、重い罪を犯した人もたくさんの災いをもっている人も、観音様やお不動様の慈悲・加護を受けることが出来る、というようなことが書かれている。この銘文は事業を引き継いだ住職敞隆によるもの。元禄16年(1703年)の大地震からの再興であろう。

(11)観音堂

 仁王門をくぐり急勾配の苔むした石段46段を上り詰めると、三間四方の観音堂がある。明治初期の建築で、大正12年(1923年)の大震災を免れた古い建物。安房国札第32番の札所で、木造聖観世音菩薩立像(像高110cm)が厨子{ずし}に安置されている。檜材で、左手に蓮華を持ち、右手は蓮弁に添え、腰はやや左にひねったお姿である。平安時代後期の作で市の指定文化財。堂内には「はるばるとのぼりてみれば小あみさん かねのひびきにあくる松かぜ」の観音札所御詠歌額と、「御手にもつはちすのいとの小あみ寺 いかなるつみもここにあらめや」の和讃の額が掛けられている。

(12)住職墓地

 観音堂の左手と裏手の墓地は歴代住職のもの。裏手は三列で17基、左手には10基の墓がある。裏には29世・31・32・33・36・37・39・42・44~47・50~55世の墓と、若くして亡くなったお弟子さんの墓が3基ある。左手には20・30・34・35・38・41・43・48・49世の墓と中興開山塔ほか3基の墓と、倒壊して世代不明の墓がある。

(13)法華谷{ほっけやつ}やぐら

 墓地を抜けて坂を下りたところを通称法華谷といい二つのヤグラがある。左のヤグラは高さ1.2mで、奥壁に2基の五輪塔が浮き彫りにされ、右のヤグラは2基の五輪塔が据え置かれ、中央には右手に五鈷杵、左手に数珠を持った石造の弘法大師坐像が安置されている。文政11年(1828年)に出野尾村と岡田村の人々が寄進したもの。ここは弘法谷ともよばれ、弘法大師修行の場として伝えられている。


<作成:ふるさと講座受講生

石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木巽・山口昌幸>

監修 館山市立博物館