大巌院  

大巖院{だいがんいん}の概要

 館山市大網字大ミタにある浄土宗寺院で、仏法山大巖院といいます。慶長8年(1603年)に、浄土宗の高僧、雄譽{おうよ}上人が布教のため房州を訪れたとき、里見義康の帰依をうけ、大網村に32石の寺領を与えられて創建されました。不幸にもこの年に義康は32歳の若さで亡くなります。後継の幼主里見忠義も慶長19年(1614年)に改易となって鳥取県の倉吉に配流{はいる}され、房総里見氏が終焉を迎えるという波乱の時でした。後に雄譽上人は倉吉の忠義のもとへ尋ねています。徳川家からも寺領を安堵され、末寺18か寺、配下の寺7か寺をもち、42石の寺領を擁する安房における浄土宗触頭{ふれがしら}の寺院となりました。雄譽上人は寛永6年(1629年)に総本山京都知恩院の32世住職になりました。開山以来、阿弥陀如来を本尊として極楽浄土の説法を庶民に広め、「盗賊の切腹」という法話が今も語り継がれています。本堂の窓には来迎{らいごう}図や蓮華浄土図がステンドグラスで描かれ、幻想的な雰囲気に包まれています。山門脇にも蓮池を配し、極楽浄土世界を見せてくれる寺院です。

(1)圓光大師{えんこうだいし}七百年報恩塔

 浄土宗開祖法然{ほうねん}上人の700回遠忌{おんき}の記念に建てられた。圓光大師の名は法然が東山天皇から賜った称号である。建暦2年(1212年)1月に入滅、明治44年(1911年)が700回遠忌だった。本堂・庫裡{くり}の修復・増築の紀念と合わせて、大正2年(1913年)正月に建てられた。

(2)台湾出兵兵士墓碑

 日清戦役に勝利した後、植民地として領有した台湾に行った憲兵上等兵の墓で、明治31年(1898年)3月、公務中に金包里{きんぽうり}という村で事故死した。行年27歳。上官・同僚らが建立義捐金を提供した。

(3)日露戦役戦没者墓碑

 日露戦役で最初の本格的な戦闘となった遼陽{りょうよう}攻撃を始めた明治37年(1904年)8月28日に、27歳で戦死した陸軍歩兵軍曹の墓。7日間の戦闘で日本軍は5千5百名の戦死者と1万8千名の戦傷者という犠牲があり、ロシア軍にも2万名余の犠牲者が出た。

(4)日露戦役戦没者墓碑

 日本軍は明治38年(1905年)3月1日に奉天{ほうてん}への総攻撃を開始し、10日に奉天城内に突入し勝利した。この墓の主、陸軍歩兵上等兵は田義屯{でんぎとん}という村で負傷し、9日に戦傷死した。日本軍は約25万名、ロシア軍は約32万名の兵力を結集した日露戦役中最大の戦闘だった。日本軍は7万名の死傷者、ロシア軍は9万名の死傷者があり、ロシア兵は2万名余が捕虜となった。

(5)四面石塔{しめんせきとう}

県指定文化財(昭和44年)

 元和10年(1624年)に雄譽霊巖{おうよれいがん}上人が建立した玄武岩製の四角柱の石塔で、高さは219cmある。北面にインド梵字{ぼんじ}、西面に中国の篆字{てんじ}、東面に朝鮮のハングル、南面に日本の和風漢字で、それぞれ「南無阿弥陀仏」と刻まれている。ハングル文字は15世紀半ばに制定された初期の字体で、現在は使用されておらず、韓国でも極めて少ない貴重なもの。建立した元和10年が文禄の役(秀吉の朝鮮侵略)から33回忌にあたり、雄譽上人と寄進者・山村茂兵(北面に刻まれた人物)が、戦没者供養と世界平和祈願をこめて建立したのではないかとの考え方がある。

(6)誕生仏{たんじょうぶつ}(=お釈迦様)

 四面石塔の裏側に、生まれたばかりのお釈迦様の姿である誕生仏を刻んだ墓石がある。高さ60cm。お釈迦様が生まれたとき、右手指で天を指し左手指で地を指して、「天上天下{てんじょうてんげ}、唯我独尊{ゆいがどくそん}」と唱えたという姿。墓石の側面には文化7年(1810年)、心体信士、奥州丸森村(宮城県)の善兵衛と刻まれている。ちなみにこの台座は、寛永10年(1633年)の宝篋印塔{ほうきょういんとう}の基礎で、里見時代を生きた別人のもの。

(7)真里谷{まりやつ}氏墓塔

 誕生仏の後に、キリーク(阿弥陀如来)の美しい梵字{ぼんじ}が刻まれた板碑型の墓石がある。貞享4年(1687年)、真里谷氏信重妻と刻まれている。真里谷氏は戦国時代の上総武田氏の子孫とされ、里見氏に仕えたのち、江戸時代に真倉(館山)村で大名主を勤めていた。

(8)(9)(10)太平洋戦争戦没者墓碑

(8) 終戦後の昭和20年(1945年)11月、北支河南省(当時中国を支那と言った)で病死した、陸軍砲兵上等兵の墓。行年22歳。

(9) 昭和19年(1944年)、山西省チャローで戦病死した陸軍伍長の墓。行年23歳。

(10) 台湾台北近くの淡水河口で、航空機事故により殉職した海軍整備兵長の墓。行年21歳。

(11)石灯籠

 本堂前の石灯籠は江戸初期のもので、「南無阿弥陀仏 雄譽」と刻まれている。左側は元和10年(1624年)2月に雄譽上人の弟子で大巌院2世の霊譽上人が建立。右側は翌寛永2年(1625年)12月に光譽上人が授けたとある。基礎石は共に本体より古い造りである。

(12)鈴木抱山{ほうざん}の墓(安房先賢偉人の一人)

 鈴木家歴代の法名が刻まれた墓碑がある。その7代目が安房先賢偉人16人のひとり鈴木抱山<天保4年(1833年)生まれ>の法名である。鈴木家初代は里見家に仕えていたが、里見氏国替えの際士分を離れて医者となり、代々が医者を務めたという。抱山は館山町に生まれ、名は恭、字{あざな}は克斎という。医者でありかつ儒学の造詣も深く、また詩歌に長じており、医業のかたわら子弟に学問を教授していた。明治31年(1898年)没、66歳。

(13)雄譽霊巖{おうよれいがん}上人の墓

市指定文化財 (昭和43年)

 房総を拠点として全国的に活躍した近世浄土宗の高僧・檀蓮社雄譽霊巖松風大和尚の分骨の墓(総高2mの無縫塔)である。幼名を友松といい、天文23年(1554年)に駿河国(静岡県)沼津に生まれた。11歳で沼津浄蓮寺の増誉上人について出家し、下総生実{おゆみ}の大巖寺貞把上人に師事して霊巖と名乗った。34歳で大巖寺3世となる。霊巖は諸国を巡行して数多く寺院の建立、布教に活躍した。霊岸島の霊巌寺もそのひとつ。皇室からの親任が厚く、また徳川家康の篤い帰依を受け、将軍家の命により浄土宗総本山の京都知恩院32世となった。寛永13年(1686年)に火災がおこると霊巖は責任を痛感し、徳川家の援助を得て復興に専念、寛永15年(1638年)に造営落成させた。そのため浄土宗中興の祖と呼ばれる。寛永18年(1641年)9月1日没。88歳。遺骨は所縁の寺々に分骨されたという。

民話・盗賊の切腹

「むかしむかし、館山の大網の近くに源兵衛という盗賊が住んでいました」と始まる、大巖院の雄譽上人が登場するお咄{はなし}があります。

 どんな悪人でも一生懸命真心を込めて、南無阿弥陀仏とお念仏を唱えれば、死んでから極楽浄土に行くことが出来る、と上人から教えられ、7日間毎日説法を聴きにかよった盗賊源兵衛は、翌日数百回の念仏を唱えると、自ら進んで切腹をしてしまったということです。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」

青木悦子・岡田喜代太郎・金久修・君塚滋堂・鈴木惠弘{よしひろ}・中屋勝義・吉野貞子>

監修 館山市立博物館