三福寺  

三福寺の概要

(館山市館山1195)

觀立山九品院三福寺{かんりゅうさんくほんいんさんぷくじ}は浄土宗の寺院です。文明3(1471)年に相蓮社順譽上人{そうれんしゃじゅんよしょうにん}によって開山され、元禄16年(1703年)の大津波の後、新井浜{あらいはま}から現在地に移ったという伝承があります。里見義康{よしやす}が館山の城下町を造るために新井浦の土地を割り振る際に、寺の土地をとりあげたため、三福寺は代替地として汐入川{しおいりがわ}河岸を所望しましたが、後に河口から砂が押しあがり、河川の補修に必要な費用さえ捻出できず肝心の寺領にならなかったことから「御上地{ごじょうち}に、あてがいなしの三福寺」と言うことわざが生まれたと伝えられます。しかし、汐入川河口の利用は流通に関する権利を持つことを要求したのであり、先見の明と当時の権力者と深く結びついていたことを示すことわざとも言えます。元禄16年(1703年)の大地震や大正12年(1923年)の関東大震災による焼失等度々災難に遭い、寺宝、過去帳や文献等が失われていますが、境内には、館山ゆかりの偉人の碑や墓があり、創建以来の歴史の一部をうかがい知ることができます。かつて山門は境内の西側に位置していましたが、現在は汐入川沿いにも入口ができ、本堂はその正面に平成10年(1998年)に再建されました。

(1)庚申塔

寛文11年(1671年)7月に建立された。正面に一面六臂{ろっぴ}の青面金剛、足元に三猿が彫られている。新井光明講中の施主の館山中町9名の名が刻まれている。家内安全、五穀豊穣等を祈り建立したもの。60年に一度の庚申の年ではないので庚申講の集まりを3年18回続けた時に建てられたと思われる。

(2)新井文山夫妻墓碑

-1 新井文山{あらいぶんざん}は幕末の房州の儒学者。館山新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や地元柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14才の時住職の援助で江戸に遊学する。昌平黌{ょうへいこう}(昌平坂学問所)に入門し儒学を学び、28才で帰郷して塾を開き地域の教育に力を注いだ。天保7年(1836年)、館山藩主稲葉公に仕え、天保13年(1842年)に目付兼郡奉行となる。中央が文山、左に先妻、右に後妻の法名が記されている。左側面には先妻を讃えて門人の上野清泰が墓誌を記している。

-2 文山は嘉永4年(1851年)73才で没。碑銘は嘉永6年(1853年)、次男の可大{かだい}に請われた昌平黌教官の佐藤坦{たいら}(号は一斎{いっさい})の撰文で、保田の武田石翁により刻まれている 。

(3)宮司政吉君の碑

明治40年(1907年)建立。館山町生まれ。明治37年(1904年)2月に開戦した日露戦争に翌月出兵し、同11月旅順において戦死した。享年23歳。東宮職御用掛{ごようがかり}小野燗{かん}による選書と篆額{てんがく}である。小野鐗(小野鵞堂{がどう})は、明治初期北条にあった長尾藩の人。28歳で「明倫歌集」を歌かるたにして昭憲皇太后に献上した。38歳で東宮職御用掛、明治・大正期のかな書道界を代表する大家である。基壇にある2個の砲弾は、直径の大きさから三笠型の副砲ではないかと思われる。

(4)伊串歌夕墓碑

三秋庵歌夕{さんしゅうあんかせき}は通称平六といい、俳諧{はいかい}を能{よ}くした人物。大阪の人で宝暦5年(1755年)生まれ。館山で櫛{くし}屋を営む伊串{いぐし}氏に婿入し、文政2年(1819年)に亡くなった。櫛の絵が描かれた墓碑は天保4年(1833年)に友人達が資金をだし、新井文山が碑文を書いた。

(5)石造釈迦如来三尊坐像

参道の左に館山町楠見の石工、俵光石{たわらこうせき}による釈迦三尊像がある。礎石を含めた高さは3.85m。伊豆の小松石を用い、螺髪や口髭を付けふっくらしたお顔で脇侍{わきじ}を従えている。舟形の光背には菩提樹の葉を模った光輪、その両脇にはインド風な仏塔が配されている。釈迦像の下には獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られている。裏面上部に「明治三十六年十一月建立 當山廿{にじゅう}九世頂譽圓順代」、同下部に発起人16名の名と「高村光雲{たかむらこうん}門下俵光石彫刻」等と刻まれている。

(6)魚麟供養塔  

享保15年(1730年)9月建立。「浄土三部経一字一石」と刻まれているので無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の3つの経典を小石に一文字づつ書き写して埋め、建立した塔である。新井浦は、昔、漁村であったので魚を供養する為に建立された。

(7)先達{せんだつ} 辰野浄全墓

墓石は1.5m程で大満虚空蔵{こくうぞう}講中により建てられている。浄全は明治43年(1910年)37才で亡くなった。大満虚空蔵とは茨城県東海村の村松山大満虚空蔵尊のことと思われ、館山から浄全を先達として参詣したと推察される。

(8)俵 光石の墓碑 

境内墓地の俵光石の墓には、「昭和十年二月十三日没 行年六十八才 俗名房吉」とある。俵光石は慶応4年(1668年)7月、安房郡楠見村の石屋を営む家に生まれた。明治24年(1891年)頃上京して東京美術学校彫刻科教授高村光雲の門下生となり、明治27年(1894)年同校同科石彫教場助手に任命され教官となる。しかし、明治30年(1897年)、館山に戻り稼業の石屋を継いだ。光石は、芸術的な作品にも意欲を見せ、当境内の釈迦{しゃか}三尊像や酒樽型の墓、寺社の狛犬、不動明王像、地蔵半跏{はんか}像など優れた作品を残している。

(9)岩崎家の墓域 

「岩崎家先祖代々 一切精霊墓碑」に岩崎与次右衛門{いわさきよじえもん}のものと思われる戒名「仰譽求道淨圓居士 寛永六年(1629年)夘四月十四日」が刻まれている。岩崎与次右衛門は安房里見氏の居城館山城下館山町(上町・中町・下町)の肝煎{きもいり}役で豪商の一人で三福寺の大檀那。岩崎氏は米を中心に多角的な経営によって巨富を築いた商人であり、天正12年(1584年)里見義頼(よしより)から館山城下沼之郷(館山市沼)に屋敷地を与えられた。義康{よしやす}の時代には城下商人の頭取{とうどり}を、慶長15年(1610年)には忠義から町中肝煎役を命ぜられた。慶長19年(1614年)、里見氏が改易になると「浄延斎」と号して隠居したが、元和元年(1615年)、幕府から再び名主役を命ぜられた。三福寺が拝領した汐入川河口部の水運や湊機能を維持するのに必要な費用負担が莫大だったため、人的・経済的能力のある岩崎氏が深く関与していたのだろうか。

(10)徳本上人名号塔 

名号塔{みょうごうとう}とは、塔面に「南無阿弥陀仏」の六文字を刻んだものである。徳本上人{とくほんしょうにん}の独特の書体の文字と花押{かおう}が刻まれている。文政2年(1812年)に二十六世 應運社瑞譽秀阿上人{おううんしゃずいよしょうあしょうにん}の時に建立された。台座には、90名余りの戒名と供養した者の町・村と名前が記されている。なお、徳本上人は、江戸時代後期の浄土宗の僧で、念仏講を組織して関東、北陸、近畿地方の農民、大名などから熱狂的な支持と崇敬を受けた。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木正>

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