光明院と諏訪神社  

青龍山光明院と諏訪神社の概要

(館山市波左間599,639)

波左間{はさま}地区は、海岸線と丘陵に挟まれた狭い地形から「狭間{はざま}」と呼ばれた地で、縄文時代より海に関わり生きた人々の暮らしが営まれた漁村です。真真言宗の青龍山光明院(本尊:不動明王)と波左間の鎮守諏訪神社(祭神:健御名方命{たけみなかたのみこと})に守られたこの地区は、かつては網漁で賑わい安房地方でも有数の漁獲高を誇っていました。漁師の信仰心は厚く、網漁の一株分が神社の維持管理費に充てられていたことが伝えられています。諏訪神社祭礼では国の記録選択無形民俗文化財の「みのこ躍り」を継承しています。凝灰岩{ぎょうかいがん}で出来た加工しやすい岩盤を開削してつくられた境内には、幾つもの岩窟{いわや}があり神仏が祀られています。下の段に光明院、上の段に諏訪神社が並んで鎮座していますが、江戸時代末の文久年間(1861年~1864年)の火災で同時に社堂を焼失したことがあります。光明院の創建年代は不詳ですが、本堂の地蔵菩薩法衣垂下{ほうえすいか}坐像は室町時代後期の作と推定 されています。

(1)六地蔵

参道左手の岩窟{いわや}、境外墓地に向う道路沿い、境外墓地の中の3か所に六地蔵が安置されている。日本では六地蔵は墓地の入口などによく祀られている。道路沿いにある六地蔵の像高は約60cm。参道にある6体の六地蔵は約44cm。境外墓地の六地蔵は一石で宝暦3年(1753年)の作である。お地蔵様は地域の境界に安置され悪病の侵入を防ぎ人々を守ると信じられており、子供達からも親しみを持たれている。

(2)延命地蔵尊

二体の延命地蔵尊のうち、左側の延命地蔵の蓮華座{れんげざ}には「念仏講」の文字が彫られている。坂田{ばんだ}との境にある浅間山{せんげんやま}の麓にあった地蔵尊で村境の道祖神{どうそじん}として祀られ、仏に救済を求める念仏講もあった事がわかる。昭和の初めに道路拡張に伴い現在の場所に安置された。

(3)青面金剛{しょうめんこんごう}像

60日ごとにくる庚申の日の夜に眠ると、三尸{さんし}という3匹の虫が体を抜け出し、天帝に罪科を告げ、天帝はそれを聞いて人の死期を早めると信じられていた。そのため人々は講を作って集まり、夜を眠らずに過ごして健康長寿を願った。崇拝の対象である青面金剛は庚申の主尊である。頭に髑髏{どくろ}を戴{いただ}き、背後の手は輪宝{りんぽう}・三股叉{さんこさ}・弓・矢を持つ。前面左手はショケラといわれる女人の髪をつかみ、右手には剣を持つ穴がある。上部には日・月・足元左右には鶏、踏みつけられた邪鬼{じゃき}の下には三猿が描かれている。この像は、寺号碑裏の石段を登りきった所にある岩窟{いわや}に祀られていたが、お参りが大変なので現在の場所に移されてたという。

(4)光明院本堂の彫刻

松や鶴の浮彫りを施した向拝虹梁{ごはいこうりょう}の上に、鋭い爪に長い胴、出っ張った丸い眼に大きく口を開けた頭部をもつ龍。木鼻{きばな}には獅子と象。肘木{ひじき}は波に亀。桁隠{けたかく}しに山鵲{さんじゃく}。堂を囲むように配した蟇股{かえるまた}などの彫物がある。文久年間の火災後に再建された際に作られたもので、初代義光{よしみつ}こと後藤利兵橘{たちばなの}義光が、明治元年(1867年)、53才の時に制作した。寄進者として早川善兵衛など6名の名が刻まれている。なお、屋根の露盤{ろばん}には波の龍の鏝絵{こてえ}がみえる。

(5)大岡越前守家臣伊藤郡司の娘の墓

本堂裏手に名主佐野家の墓所があり、左端に天保14年(1843年)2月に47歳で亡くなった「芳{よし}」の墓がある。碑文には三河国西大平藩(岡崎市)藩主である大岡越前守忠愛{ただよし}の家臣伊藤郡司の次女で江戸生まれとあるが、佐野家と彼女との関係については伝えられていない。

(6)白河藩士の墓

墓地の右手奥に10基の墓石が並び、その中に白河藩士の墓がある。文化7年(1810年)、幕府より奥州白河藩に房総沿岸警備が命じられ、藩では波左間に陣屋{じんや}を置き500人を送り込んだ。親や妻子を伴って赴任した藩士も多く、文政5年(1822年)までの約12年にわたる駐屯期間にこの地で亡くなった者も大勢いた。墓地の中央辺りにも2基の小さな幼児の墓があり、文化13年(1816年)8月1日、2日と同時期に亡くなっている。白河藩士中部直方が建てたと刻まれている。

(7)首藤{すどう}金右衛門俊秀の墓

首藤金右衛門は白河藩の火術方で、藩主松平定信の命により、越後から鋳物師{いもじ}を招いて、波左間の陣屋で大小砲127門を作らせ、洲崎・百首{ひゃくしゅ}(富津)の砲台に備えた人物である。平砂浦で試射もしている。墓石から文化12年(1815年)に69歳でこの地で没したことがわかる。

(8)元禄地震犠牲者の墓

墓地の崖際の一面に古い墓石がまとめられている。その中のひときわ大きな墓石の右側に、「元禄十六癸未之天{みずのとひつじのとし}(1703年)十一月廿二日䇦蓮成鎮各霊位」と元禄地震の日付が刻まれている。左側には「元禄十一年霜月十日海水底流各霊位」とある。この墓石は、元禄地震や水難事故により亡くなった人達を供養した墓石と思われる。

(9)狛犬{こまいぬ}と寄付者記念碑

昭和2年(1927年)に建立された「狗犬壹對{こまいぬいっつい}寄附者御芳名」の碑には、波左間漁業組合などの漁業関係団体・商店・船名・個人名が34組記され、8件ある商店名は、東京・横浜など県外の魚問屋と思われる。狛犬の乗る御影石{みかげいし}の台座には、奉納した「氏子中」「昭□二年六月吉日」と発起人2名の名前がある。1名は芳名碑にも記されている。

(10)諏訪神社の手水鉢{ちょうずばち}

正面に「奉納灌水{かんすい}」、右側面に「弘化二己巳{つちのとみ}(1846年)夏五月良辰 神通{じんつう}従{したごう}書」、左側面に「江戸本船町{ほんふなちょう} 願主伊豆屋善兵衛」とあり、江戸日本橋の魚問屋による奉納とわかる。「灌水{かんすい}」の文字を書いた神通は、殿岡北海{とのおかほくかい}という富山藩士。9代藩主前田利幹{としつよ}に仕えた。江戸で国学者の清水浜臣{はまおみ}に学び、書に堪能だった人物。慶応元年(1865年)没。

(11)諏訪神社拝殿の彫刻

社殿は平成の再建で、向拝{ごはい}の龍と肘木{ひじき}は現代の彫工稲垣祥三の作。それ以外は旧社殿のもの。作者は特定できないが、安房後藤派の流れを汲んだ作で、木鼻{きばな}の振向き獅子は初代後藤義光の弟子後藤義信{よしのぶ}の作品と酷似している。虹梁{こうりょう}や火灯窓{かどうまど}の上の貫{ぬき}に彫られた若芽彫{わかめぼり}の菊は初代義光の作と思えるほど彫りが深く丁寧な作り。切妻{きりづま}屋根の懸魚{げぎょ}には波にクジラと思しき彫刻がある。

(12)回国{かいこく}供養塔

境外の道路に面した崖面に彫られた岩窟の中に、六地蔵の右端に並んでいる。台座正面に「昭和四丁亥{ひのとい}(1767年)天」、中央に「日本回国供養仏」とある。通常の大乗妙典{だいじょうみょうてん}六十六部供養塔とは異なり、「回国供養仏」と記され、塔身の上に地蔵立像が乗る。「行者空心」の銘があるが、生き倒れの六部{ろくぶ}の供養か、空心が供養したかは不明。台座・蓮華座・地蔵尊の石材は全て異なり、寄せ集めた可能性もある。

(13)三山碑(百観音供養塔)

正面に「月山、湯殿山、羽黒山」、右面に「西国、秩父、坂東百番観音供養塔」と「天保十二辛丑{かのとうし}(1841年)二月」の年号が刻まれ、上に大日如来坐像が座{ざ}す。三山詣{まい}りは、仮の葬儀をして死出の旅として行うもので、出羽三山までは六道遍歴になぞらえて百観音霊場を巡り、三山で新しく生まれ変わって、行人{ぎょうにん}の資格である剣梵天{けんぼんてん}を頂き帰宅するまでの修行と信仰である。長い旅は3年を要した。行人の身代わりとして剣梵天を埋め供養塔を建てた。なかでも行人名のある三山碑は拝むだけで地獄、餓鬼{がき}、畜生{ちくしょう}の三悪道から永久に逃れられるという。三山碑は家族の墓地とは別に街道に面して建てられた。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・鈴木正・殿岡崇浩・中屋勝義・吉村威紀 2017.6.25作
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