長福寺  

普門山長福寺の概要

(館山市館山928-1)

普門山光明院長福寺といい真言宗の寺院です。伝忠{でんちゅう}法師が寛正{かんしょう}元年(1460年)に中興開山したとされ、ご本尊は不動明王。「館山観音」として親しまれ、安房国札観音2番、西口薬師2番、西口六地蔵、南房総七福神(福禄寿)の札所です。館山小学校開校の地で、明治5年(1872年)の学政令発布の翌年に、寺小屋だった当寺に開校しました。墓地内に館山藩御典医の宮川元斉の墓、本堂内には関東大震災で倒壊した上町中町の諏訪神社を飾っていた獅子鼻{ししばな}と龍の彫刻(3代武志{たけし}伊八郎作)があります。新井霊園には、江戸大相撲力士で新井出身の錦岩{にしきいわ}浪五郎の墓(慶応3年=1867年没)と、尾張出身の粗宗{そしゅう}が文政6年(1823年)に建てた三界萬霊塔{さんがいばんれいとう}があります。

(1)歴代住職の墓

表参道に寛永元年(1624年)から寛政12年(1800年)没26世住職までの12基と、観音堂横に文政11年(1828年)没の27世以降8基の墓がある。

(2)筆小塚{ふでこづか}

歴代住職の墓には筆小塚が2基ある。筆子{ふでこ}と言われる寺小屋の教え子たちによって建立された師匠の墓。26世運仙{うんせん}(寛政12年=1800年没)と27世宥弘{ゆうこう}(文政11年=1828年没)の墓で、館山の教え子たちが建立した。運仙は後に清澄寺15世として出世した。

(3)仙台藩御用船乗組員の墓

仙台藩の重要な港である石巻・宮古・寒風沢{さぶさわ}出身で、御用中に死亡した御用船乗組員3名の墓。仙台藩は江戸初期から房州経由の千石船で年貢米を江戸へ輸送しており、館山には管理の役所があった。

(4)庚申塔{こうしんとう}

延宝7年(1679年)建立。文字と三猿、日月が彫られている。庚申{かのえさる}の夜に眠ると、体の中に潜む三尸{さんし}の虫が天帝に罪状を告げて命が縮まると言われ、講中で宴を開き夜が明けるのを待つ信仰があった。

(5)寄子萬霊塔{よりこばんれいとう}

戊辰戦争の時に、館山藩からやむなく出兵した家臣と、館山の人宿{にんしゅく}相模屋によって集められ、箱根・山崎の戦いで戦死した人々の慰霊碑。宿陣を請け負った相模屋妻吉が上須賀の北下台{ぼっけだい}観音堂境内に建立したもので、観音堂と共に移された。台座正面には「一番組人宿 相模屋妻吉」とあり、塔身の周囲には35名の戒名と練兵士5名、請負人番組{ばんぐみ}人宿補助11名の名が刻まれている。裏には「鐘の音の 落ち葉にさみしき 夕べかな」という萬秋舎豊山{ばんしゅうしゃぶざん}の句がある。

(6)宝篋印塔{ほうきょういんとう}

正面に「宝篋塔」と大きく刻まれ、右側面から時計回りに宝筐院陀羅尼{だらに}経が刻まれている。享保17年(1732年)の阿闍梨{あじゃり}■祐一周忌の供養塔で、当寺21世法印宥智{ゆうち}がお経を記し、僧俗万民で建立した。

(7)大檀那{おおだんな}嶋田家の墓

嶋田家は新井浦の世襲名主で、当寺の大檀那である。寛永7年{1615年}から元文3年(1738年)までの、江戸時代前半の先祖代々の五輪塔・宝篋印塔などの墓塔12基がある。嶋田家には慶長7年(1602年)に里見氏、元和元年(1615年)に徳川氏が関わった古文書がある。たびたびの震災等で倒壊した際に修復されたが、誤換・混成が生じている。

(8)戦没者墓碑

8-1 海軍特務少尉 張替安造君の墓碑

昭和4年(1929年)横須賀海兵団に入団。日中戦争に従軍し、昭和15年(1930年)6月重慶の空中戦闘で戦死した。享年30歳。館山の人。撰文と書は豊房村に日新学舎を創立した鈴木貞良である。

8-2 海軍二等機関兵曹 嶋田留男君の墓碑

昭和14年(1939年)横須賀海兵団に入団。太平洋戦争に従軍し、昭和18年(1943年)4月太平洋上の戦闘で戦死した。享年26歳。那古の人。

8-3 陸軍上等兵 里見吉之助君の墓碑

太平洋戦争に従軍し、昭和17年(1942年)9月中国浙江省杭州で戦死した。享年22歳。館山の人。

8-4 地区郡歩兵上等兵 今井辰夫君の墓碑

昭和13年(1938年)に召集され軽機関銃射手として日中戦争に従軍し、昭和14年(1939年)3月白襷{しろだすき}決死隊の一員として中国南昌(江西省の省都)攻略戦で戦死した。享年23歳。北条の人。

8-5 陸軍准将 金子勤一郎君の墓碑

昭和10年(1935年)に佐倉歩兵連隊へ入団。日中戦争に従軍し、昭和14年(1939年)から北支(中国北東部)を転戦中、昭和16年(1941年)10月に戦死。享年28歳。館山の人。撰文と書は船形在住の陸軍大将多田駿{はやお}。

8-6 海軍特務少尉 小幡晋治君の墓碑

太平洋戦争に従軍し、昭和17年(1942年)8月に南太平洋のソロモン諸島ツラギ島で戦死した。享年36歳。館山の人。

8-7 陸軍歩兵上等兵 鈴木茂君の墓碑

昭和13年(1938年)に佐倉歩兵連隊へ入団。日中戦争に従軍し、南昌攻略に参戦。昭和14年(1939年)に同地で戦死した。享年27歳。優秀な館山郵便局員だったという。撰文は部隊長の秋葉正、書は豊房村の教育者鈴木貞良である。

8-8 陸軍歩兵上等兵 吉田馬之助君の墓碑(新井霊園)

明治27年(1894年)の日清戦争に従軍。日露戦争にも従軍し、明治37年(1904年)10月の第2回旅順総攻撃で戦死した。享年34歳。館山の人。正面の書は北条在住の伯爵萬里小路{までのこうじ}通房、背面の撰文と書は『安房志』を書いた安房中学校教員斎藤東湾である。

(9)六地蔵

嶺岡山系の蛇紋岩{じゃもんがん}製。戦国時代のものだが、笠と敷茄子{しきなす}は江戸時代のもの。六角柱で、舟型の光背{こうはい}に収まり、5体はほぼ同じ高さだが、南面の1体だけが少し背が低く、合掌している。

(10)手水{ちょうず}石

安山岩製のどっしりした手水石で、正面に「観音堂」、背面に「茂原氏」と刻まれている。北下台{ぼっけだい}から観音堂と一緒に移された。茂原氏は館山藩初期に茂原道右衛門という家臣がいたことが記録にあり、この一族と思われる。

(11)如意輪観音像

総高約120cm。舟型光背の文字から、念仏講の人々の菩提のために清覚禅定尼が本願人となり、寛文12年(1672年)に造立したとわかる。大檀那嶋田家の壽慶{じゅけい}が結衆{けっしゅ}として加わっている。

(12)阿閣亮吟{あかくりょうぎん}居士の墓

「預修{よしゅ}」とあるので、生前供養を目的に享保18年(1733年)に建立された。法名に「吟」が入り、その両脇に辞世の歌「たまのおは たえてもよしや みほとけに ■■を■■りの いしとなりけれ」と添えられ、和歌を嗜{たしな}む人であったとみえる。

(13)観音堂

国札観音31番札所で、本尊は千手観音菩薩。「観音へ 詣りて沖を眺むれば 岸うつ波に 舟ぞ浮かぶる」の御詠歌があり、元は海の見える北下台{ぼっけだい}にあって、館山城の鬼門だった。関東大震災での倒壊により本尊は長福寺に移された。館山観音は房州の「北向き観音」として親しまれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・羽山文子・山杉博子 2017.11.12作
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