館山城跡を歩こう  

館山城跡の歴史

<里見義康・忠義の居城:1591年~1614年>

博物館がある城山公園は「城山」と呼ばれている独立丘陵で、戦国時代末から江戸時代初期に房総里見氏が居城にしていた城跡です。豊臣秀吉に仕えた里見義康{よしやす}が岡本城から館山城へ移転してきたのが大正19年(1591年)のこと。徳川幕府によって慶長19年(1614年)に。義康の子里見忠義{ただよし}が伯耆国{ほうきのくに}倉吉(鳥取県)へ移されるまでの24年間が、里見氏の本城となっていた時期で、その間に館山から北条にかけての城下町も整備され、現在の館山市の基礎ができました。城域は戦国時代には城山のみだったと思われますが、本城となってからは城山の北から東にかけて平坦地に水掘をめぐらせ、城域を拡大整備させていったと考えられます。

(1) 城井戸{しろいど}

小字が「城井戸」という。館山城の飲料となった井戸があった場所で、江戸時代には酒造に使用されたという。

(2) 采女井戸{うねめのいど}

里見忠義の側近印東采女佑{いんとううねめのすけ}の屋敷の井戸と伝えられる。この周辺は清七屋敷・大蔵屋敷・大膳{だいぜん}屋敷の呼び名もあり、里見氏の重臣屋敷があった地域と考えられる。江戸時代後半は館山藩の陣屋がおかれた。

(3) オンマヤ下のウバカミ様

里見氏以前の南北朝時代の五輪塔が並んでいる。ここからは骨蔵器{こつぞうき}に使われた14世紀の陶磁器が明治時代に出土している。中世の「やぐら」が崩れた場所と思われる。現在は、倉吉で里見忠義に殉職した家臣八人を供養している。

(4) 根古屋の古墓{ねごやのこぼ}

本城になる以前の館山城の城番{じょうばん}衆の集落があった地域と思われる。古墓は15世紀の五輪塔で、里見氏以前のものだが、明治時代に掘り起こされて「里見の墓」として評判になったことがある。

(5) 宗真寺{そうしんじ}

浄土真宗の寺で、江戸時代初期に創建された。小字を「御厩{おうまや}」といい、里見氏の馬場があったとされている。

(6) 泉慶院{せんけいいん}跡

里見氏から寺領160石を受けていた曹洞宗の寺。義康の叔父梅王丸・祖母青岳尼の供養塔がある。「泉慶院の池」は「鹿島堀」とも呼ばれ、城山城の外堀が残されたものとされる。里見氏の領地である常陸国鹿島領の領民がつくった堀との伝承がある。

(7) 慈恩院{じおんいん}

館山城主里見義康の菩提寺。曹洞宗。義康の朱印状、義康の墓がある。

(8) 伝里見義康墓

塚状をなす。石垣や石碑は明治末に里見氏を顕彰する人々によって整備された。

(9) 妙音院{みょうおんいん}

天正年間に、里見義康が高野山から招いた快算{かいさん}を開山に創建された高野山直末{じきまつ}の寺。高野山では妙音院が安房国を檀那場{だんなば}とし安房の人々の宿坊になっていた。

(10) 館山市博物館

ふもとの本館は里見氏の歴史を紹介している博物館。天守閣は里見氏をモデルの創作された「南総里見八犬伝」を紹介する博物館。館山城に天守閣が存在していたかは資料がなく不明で、現在の天守閣は福井県の丸岡城をモデルに建設した模擬天守である。現在の天守の位置は昭和の戦争中に砲台建設のため、山頂を7m削っており、当時とは地形が異なっている。

館山城の遺構

(11) 切岸{きりぎし}

城山の裾部は地山{じやま}が垂直に切り出され、山を取り巻くように城壁となっているのを見ることができる。

(12) 堀跡{ほりあと}

天王山から御霊{ごりょう}山を取り巻くように堀の跡が残されている。上幅14m、深さ5mの箱薬研{はこやげん}状の水掘だった。城山の東裾の水田には堀だったことをうかがわせる地形が見える。

(13) 堀跡{ほりあと}(推定)

公園駐車場では深さ3m、幅37m以上の水掘跡が発掘で確認された。江戸幕府の館山城請取軍によって埋められたが、宅地化以前の水田には堀だったことを推定させる場所もあった。

(14) 堀切{ほりきり}

館山城跡で唯一残られている尾根を断ち切る堀切遺構。堀底は現在より4m以上下{した}と推測されている。

(15) 掘立柱建物跡{ほったてばしらたてものあと}

梅園下の曲輪{くるわ}では掘立柱建物の柱穴が確認されている。里見義康の御殿があったと推定されている。

(16) 新御殿跡{しんごてんあと}

城内では千畳敷{せんじょうじき}とならぶ大きな曲輪{くるわ}で、里見忠義の御殿があったと推定されている。

館山市立博物館 作成