初代後藤義光の彫刻を訪ねて 1.(千倉・白浜編)  

後藤義光その1 義光生誕の地

文化12年(1815年)生~明治35年(1902年)没

初代「後藤利兵衛 橘 義光{ごとうりへえ たちばなのよしみつ}は、近世・近代における「安房三名工」の一人である。南房総市千倉町北朝夷上人塚{きたあさいじょうにんづか}に生まれ、晩年には館山市下真倉{しもさなぐら}(青柳{あおやぎ})に住んだ。生まれ育った千倉町には数多くの義光の彫刻が残され、今も各年代につくられた作品を見ることができる。

義光は社寺の向拝{ごはい}や山車{だし}・神輿{みこし}などに施された龍の彫刻や、篭{かご}彫り技法(素材の外側から内側に施した丸彫りと透かし彫り)を得意とする宮彫り師であるが、門人育成にも力を入れ千倉後藤流とも言うべき一派をなした。墓は菩提寺の西養寺{さいようじ}(南房総市千倉町北朝夷)に残されている。

安房の三名工(義光・伊八{いはち}・石翁{せきおう})

安房の三名工として後藤義光・波の伊八{いはち}・武田石翁{せきおう}が知られている。各地に残る名工たちの作品を比較しながら見るのも興味深い。

  • 武志{たけし}伊八郎信由{のぶよし}(鴨川市西条地区打墨{うっつみ}生まれ:1752年~1824年、行年73歳)

    波の彫り物を得意とする伊八は、千倉町川合区では愛宕神社本殿の「波」、牧田区では下立松原神社及び御霊{みたま}白幡明神本殿の「瑞獣{ずいじゅう}」(応竜・麒麟・霊亀・鳳凰)や「龍・虎」など数多くの彫刻を残している。平館区徳蔵院客殿 の「波や龍」や、大川区大聖院欄間の「波に龍」・「雲に麒麟」も見応えがある作品である。

  • 武田石翁{せきおう}(南房総市本織{もとおり}生まれ鋸南町元名{もとな}住:1779年~1858年、行年80歳)

    若死にした二人の娘の供養に彫ったという延命地蔵半跏{はんか}像(個人像)は、「石工」にとどまらず芸術的石彫り職人へと傾いていった石翁の最高傑作といわれる。表情の豊かさと立体的な彫りの素晴らしさは、白浜地区厳島神社「七福神」の石像にも現れている。

(1)愛宕{あたご}神社

所在地 南房総市千倉町川合722-1

祭神は火結命{ほむすみのみこと}で火の神様。治承年間(1177年~1181年)に地蔵尊を安置し京の愛宕山より権現{ごんげん}を勧請{かんじょう}して祀り、現社殿には義光14歳(幼名若松)文政11年(1828年)の作という大黒天像(像高74cm)・賓頭廬{びんずる}尊者像(座高48cm)がある。その他にも社殿内正面には武志伊八郎の龍・波の彫刻(23歳の作)や、大絵馬の天孫降臨神話図、源頼朝富士巻狩図(いずれも南房総市指定)がある。

(2)福壽山正福寺

所在地 南房総市千倉町瀬戸2293-1

真言宗のお寺で本尊は不動明王。天正元年(1573年)に創建され、北朝夷円蔵院の隠居寺といわれている。境内の南側に立っている石塔は平館{へだて}の加藤卯之助の仕事だが、彫刻は義光の作で明治31年(1898年)85歳のものである。正面に地蔵菩薩の坐像があり地蔵供養塔(十方信者供養塔)と呼ばれている。その側面には宝篋印陀羅尼{だらに}の梵字{ぼんじ}が刻まれている。本堂には当時の明道住職の寄附による義光86歳作の誕生仏があり、4月の花祭にはこの釈迦像の頭上に甘茶を注ぐので拝見できる。1000体近くの小さな地蔵像が置かれえいる千体地蔵堂は明治27年(1894年)に再興されたもので、向拝{ごはい}の火炎の親子龍と外壁正面の扉の両脇は2代目義光の彫刻である。中の格天井46枚の花鳥画は鈴木寿山{じゅざん}の作。

(3)延命地蔵尊

所在地 南房総市千倉町北朝夷{きたあさい}2830

石造延命地蔵尊は館山消防署千倉分署裏児童公園の一角に、天明2年(1782年)の手水石、大正5年(1916年)の墓石、馬頭観音、お稲荷様などと共にまとめられている。近くに小高い山にあった産土神{うぶすながみ}「八幡神社」(寺庭区)などの内陸部への移設や土地造成に伴い、昭和40年(1965年)2月24日現在地に移された。台座正面には、浄土に行けない人々や幼い者をすくうとされる地蔵尊を梵字{ぼんじ}「(力)」や瑞雲上の宝珠三個で表現してる。また台座の脇や奥には地域の「扶助{ふじょ}人」の名や、石工「長狭郡宮野下村 石渡紋三郎」と、その扶助として「後藤利兵ヱ橘義光」の名が刻まれている。明治15年(1882年)11月、義光68歳の作。

(4)八幡山西養寺

所在地 南房総市千倉町北朝夷861

真言宗のお寺で本尊は不動明王。義光の菩提寺で、初代義光(利兵衛)夫妻・二代義光(紋次郎善政)夫妻・三代義光(山口滝治)夫妻・三代義光次男(光治)などの墓がある。客殿向拝の玉取龍・象・獅子の彫刻は、天保15年(1844年)義光がまだ光定として称していた頃のもの。祖父山口佐次右衛門と父山口弥兵衛が彫物施主となって奉納したもので、平成11年の本堂新築を機に客殿に移された。墓地入口には蛇紋岩で造られた260cm程の義光作石造地蔵菩薩半跏{はんか}像(南房総市指定文化財)があり、反花座{かえりばなざ}正面に「牡丹」、基礎の正面に「獅子」・左面に「波に宝珠」・右面に「波に亀」が彫刻されている。隣にある150cm程の石造地蔵菩薩半跏{はんか}像も銘は無いが義光作とされ、また、魚藍{ぎょらん}観音堂前の木像賓頭蘆尊者{びんずるそんじゃ}像も義光が小さい頃の作品といわれている。屋根に銅製の大北鯛が乗るこの観音堂は、外房・内房の漁師の信仰が厚く、地域産業の振興・家運繁盛等の祈祷所として参拝者が多い。近くに義光の生家がある。

(5)中嶋山住吉寺

所在地 南房総市千倉町南朝夷1353

真言宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。観音堂は天保年間(1830年~1844年)に改築され、お堂には行基菩薩作と伝える正観世音菩薩像が安置されている。向拝は明治17年(1884年)、義光70歳の時の作であり、正面には親子龍が刻まれて子龍は下を向き親を見つめている。裏には「北千倉漁師中世話人、當所世話人」党の連名がある。向拝の左右には象鼻・獅子鼻が、その下には牡丹と獅子等が刻まれ、手挟{てばさ}みの左右には鷹と松が刻まれ、この向拝全体が一体化した重厚な奥深い彫刻をなしている。また観音堂の外周にも獅子鼻・掛鼻等が刻まれており、その気迫が伝わってくる。それぞれの寄進者の名もある。また石段の上り口には千倉の鰹節製造の祖、土佐与一{とさのよいち}の報恩の碑がある。石段の途中には句碑がある。

(6)新福山圓蔵院

所在地 南房総市千倉町北朝夷2393

真言宗のお寺で本尊は地蔵菩薩。本堂手前の参道左手に「如法大師供羪{くよう}塔一千五十年」の文字と弘法大師像を浮き彫りにした、高さ約6m程の石塔がある。裏に天女の浮き彫りと「明治十七年(1884年)甲申春三月造立、彫工當邑(当村)後藤義光七十二歳」と彫られている。住職鈴木明道が弘法大師の一千五十年遠忌を記念して奉納したもの。関東大震災で崩壊したが、昭和3年(1928年)、住職啓道や末寺の住職・檀家の人達により再建されている。本堂内、須弥壇{しゅみだん}前の欄間に施された彫刻は、琴を奏でる玉巵{ぎょくし}(西王母の3女)に見入る龍や唐獅子などで、安政6年(1859年)に、住職の成道、義光の祖父山口佐次右衛門と父山口弥兵衛が奉納したもの。義光45歳の作。房州出身で京都の醍醐寺三宝院住職の金剛宥性{ゆうしょう}が奉納した明治5年(1872)のご詠歌扁額{へんがく}は、龍が繊細かつ緻密に彫られたもので、回廊にある六角経蔵とともに義光の作である。境内には、古い本堂の廃材を用いて建てられた江戸中期の鐘楼堂や享保9年(1724年)の梵鐘(共に南房総市指定文化財)、宝篋印塔などがある。六角経蔵篋は次男福太郎義道の作。

(7)稲荷神社

所在地 南房総市千倉町平館{へだて}598

祭神は、倉稲魂命{うかのみたまのみこと}。安永2年(1773年)に平館{へだて}の徳蔵{とくぞう}院が京の伏見稲荷より名戸川の地に勧請し、戦後、平館稲荷{いなり}と改めた。社殿向拝の龍は、義光83歳の作で玉取龍が力強く彫られている。願主は「曦{あさい}村平館」の堀江市太郎で、明治30年(1897年)2月10日に奉納した。2月の初牛の前日の祭りでは、稲荷山の頂上から下へ赤い提灯が飾られ、福引なども行われ参拝の人で賑わう。

(8)高塚不動尊

所在地 南房総市千倉町大川817

真言宗のお寺で本尊は不動明王。高塚山山頂の元不動にある旧不動堂の前に、義光65歳の時に造った石造の狛犬が今も置かれている。お堂の左側は背に乗る子獅子を豊かな毛並みを持つ親獅子が振り向き、さらに地上に居て上を向く子獅子、それぞれが見つめ合っている姿である。高さは台座を含め約2.2m。台座に刻まれた文字によれば、明治12年(1879年)に、第17世住職小熊隆宝、世話人6名と136名の信者が奉納したもの。「文化十二年(1815年)正月北朝夷生 後藤義光」と彫師の名と生年さらに在所まで刻まれている。山頂までの参道には浅間講の人々による富士登山記念碑、伊勢金毘羅参拝記念碑、山頂には風神雷神門、江戸日本橋船町の魚問屋が奉納した石灯籠などがある。

(9)日枝神社

所在地 南房総市千倉町白間津{しらまづ}335

延喜元年(901年)、京の都から来たという岩戸大納言良勝{いわとだいなごんよしかつ}創建による神社で、祭神は大山昨命{おおやまくいのみこと}。江戸時代までは「日枝山王{ひえさんのう}」(仏教の守護神)と呼ばれていたが、明治初期「日枝神社{ひえじんじゃ}と改称。義光による社殿彫刻は明治20年(1887年)の社殿再建時に制作された(73歳)。「親子龍」(向拝)、「波に千鳥」(虹梁左右)、篭彫{かごぼ}りによる「波に鯉」や「波に亀」(向拝柱の肘木{ひじき})、「鳳凰・麒麟(瑞獣)」を組み合わせた手挟{たばさみ}一対など、来訪者への恩寵を感じさせる作品群である。向拝木鼻の獅子の手から鞠{まり}が欠落しているのは残念である。4年に1度行われる「白間津の大祭」(国指定重要無形民俗文化財)では、仮宮に渡御した日枝神社の祭神及び海や空から来臨した神に「ささら踊り」等が奉納される。みやび風の舞や神々を仮宮まで招く大綱渡し{おおなわわたし}等一連の祭は、白間津地区の開拓を神々に感謝し、五穀豊穣・大漁を祈願して行われる。

千倉町

千倉に残る初代義光の作品とされるものには、宇田地区の熊野神社の拝殿欄間彫刻や、寺庭の八幡神社の屋根妻彫刻、久保神社の狛犬などがある。神輿彫刻は川口鹿島神社、大貫熱田神社などにあるほか、個人所有の大黒天像や仏壇彫刻も数多く残されている。

白浜町

島崎地区法界時の向拝の彫刻が義光作と伝えれられている。また、根本地区の山車が明治28年(1895年)、81歳の時の作である。


<作成 ミュージアムサポーター「絵図士」 青木悦子・青木徳雄・金久ひろみ・川崎一・鈴木正・吉村威紀>