光厳寺<富浦>  

光厳寺の概要

 南房総市富浦町青木字面井戸{おもいど}にある曹洞宗の寺院で、金龍山大勢院光厳寺と号します。本尊は釈迦如来。同市内にある延命寺の末寺で、延命寺の隠居寺だったそうです。里見氏から北郡青木村の内で38石、北郡原村(富浦町原岡)の内で22石、山下郡南条村の内で11石余、計71石余の地を与えられていました(慶長11年分限帳)。寺伝によると天正2年(1574年)に延命寺の六世白峰麟さ禅師を招いて創建され、その後義頼の菩提寺にしたとされます。大勢院は義頼の法号です。享保年間(1717年~1736年)に本堂・庫裏・諸堂および鐘鼓などが新調されたものの、寛政2年(1790年)に烈風下の火災で全焼し、寛政6年再建に着手して翌年10月に竣工。その後関東大震災でも倒壊し、昭和10年(1935年)に現在の本堂が再建されました。周囲の土手は枯葉などが集められてできたもので、土塁ではないということです。


参道エリア

(1) 道しるべ

 「此寺に里見氏の墓あり」とある。高さ約93cmの比較的新しく見える石造りだが、作られた年代は不明。『橘堂吉田謹爾小伝』『正木貞蔵小伝』に「里見氏歴代墳墓の修理」という記述がある。里見滅亡後300年以上たち、荒れるにまかせていた里見氏歴代の墳墓の修理を、正木氏の発議と吉田氏の協力で大正5年(1916年)の末に竣工したとある。この道しるべはその折に一緒に造られたものと思われる。

(2) 地蔵尊

 作られた年代は不明。土地の人々は「門前のお地蔵さん」と呼んでいる。高さ約67㎝、蓮の花の形をした台座に差し込まれている。土地の人はかつて8月24日にお地蔵様の前に集い、地蔵講のおこもりをしていたということである。

本堂エリア

(3) 山門跡

 寛政2年(1790年)の火災で伽藍が焼け落ちて、本堂が再興した寛政7年以降に山門も建てられたが、大正6年(1917年)9月30日夜半から翌日の昼まで猛威を振るった暴風雨のため、槙の木が山門に倒れ掛かって損壊した。その後再建されたものの、大正12年の関東大震災によって山門の脚が折れてまたも倒壊した。現在も四脚門だった山門の礎石が残り、本堂裏には解体された古材が残されている。

(4) 庚申塚

 高さ約80㎝の庚申講の文字塔。裏面に「明治11年(1878年)2月吉日、施主当村鈴木太重郎」とある。庚申信仰は庚申の夜を寝ずに過ごすもの。戦前まで当寺を集会所として開催されていた庚申講も、戦争とともに廃れ、今では当時を知る人はほとんど見当たらない。

(5) 白山神社

 曹洞宗総本山の永平寺が白山神社を守護神にしていることから、永平寺のある福井県白山より分祠した当寺の鎮守さま。慶安4年(1651年)の創建で、毘沙門天の懸仏が納められている。今の社殿は本織村延命寺(同市内)の宮大工で名匠とされる伊丹喜内の作で、一般的な建物に比べ十倍以上の価値があると言い伝えられている。

(6) 本堂

 寛政2年(1790年)の火災で焼失、六年後に再建されたが、大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊、現在の本堂は昭和10年になって再建されたもの。正面に掛かる「金龍山」の額は、明治初期に寺を復興させた月海仙舟和尚の書。和尚の墓は本堂の左手にある。賽銭箱の文字は「福聚海」と読み、功徳が集まることを意味する。奉納者は生稲近太郎とある。中央須弥壇の本尊は釈迦無尼仏で、右手に子安地蔵が祀られている。

(7) 喚鐘{かんしょう}

 寛政2年(1790年)の火災により諸堂宇が焼失したが、鐘銘には寛政7年に本堂・銅鐘が復旧したことが記されている。第二次大戦中に各地でお寺の鐘まで供出させられたが、その際光厳寺の鐘は村の火の見櫓に吊るし、代わりに櫓の半鐘が供出された。そのため終戦で寺へ帰ることができた。

墓地エリア

(8) 無縁墓地

 「有無両縁三界万霊塔」の文字がある。三界万霊は仏教のことばで、欲界・色界・無色界の三界に生きとし生けるすべての霊のことで、この塔に宿らせて供養をする。この一画に大きめのお地蔵様と馬頭観音像がある。地蔵尊は船形中宿にあったもので、道路拡張の際に地蔵講の人々によって寺へ寄進されたものである。

(9) 二十一世地蔵尊

 明治初期の廃仏毀釈で、光厳寺の勢いも下降気味になったところを、二十一世の月海仙舟和尚の力で再び回復したという。寺を建て直し、地域の人々にも慕われた特別な人ということで、和尚の遺骨がこのお地蔵様の下に祀ってあるということである。明治7年(1874年)2月15日に没している。

(10) 里見義頼の墓

 本堂左側の墓地に一部盛土し石垣をめぐらした約6坪ほどの一画があり、里見義頼一族の墓と義頼公碑がある。義頼の墓は高さ約1.5mと小ぶりながら室町時代末期の特徴を備えた宝篋印塔である。ほか5基のうち2基は倒壊した石塔の部材を寄せ集めたもので、笠部の数量から元来は4基あったと推定され、かつては合計8基以上の墓塔があったと思われる。義頼は義弘の子で岡本城主。安房と上総半国を支配し、内政外交とも特異な足跡を残したが、晩年病気がちとなって天正15年(1587年)10月26日に没した。法号は大勢院殿勝岩泰英居士。夫人は龍樹院殿秀山芳林大姉といい、小田原北条氏の娘とされる。天正7年(1579年)3月21日没。

(11) 里見義頼公碑

 義頼の墓域内に建てられている碑は、大正5年(1916年)5月の里見氏墓域整備事業のひとつとして建立されたもので、高さ約1.9mの粘板岩。碑面上部の題額は当時の安房郡長中山竹樹の筆、碑文は地元福沢の忍足政暢が撰文、南無谷の竜門董の書。刻字は福沢出身の生稲近太郎による。なお碑文には、戦国の世に房州の地を兵禍から守った里見家と里見義頼の功績を讃えた11行の文章がある。義頼の父を義弘、祖父を義堯とするのは現在の見解と同じ。義頼の享年は32歳と記している。



<作成:ふるさと講座受講生 石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・山口昌幸・吉野正・和田喜三郎>
監修 館山市立博物館