龍喜寺と大雲院跡<三芳>  

龍喜寺の概要

 南房総市上滝田の高月城跡内にある曹洞宗の寺で、萬松山龍喜寺といいます。伝承によると、永正年間(1504年~1521年)に里見義通が開基となって創建し、その法号から天笑院(或いは天昭院)といわれ、後に里見義豊の法号である高巌院と呼ばれ、さらに現在地に移転してからは龍喜寺と名づけられたとしています。本寺は木更津市馬来田にある天寧山真如寺。本尊は地蔵菩薩で、義豊の家臣御子神大蔵の子孫が寄進したそうです。慶長年間の里見家分限帳には寺領の記載がありませんが、里見義通の位牌や義豊の寄進と伝えられる阿弥陀如来像を安置しています。この寺の檀家は地元上滝田のほか犬掛にもいるそうです。


大雲院跡の概要

 犬懸山大雲院は南房総市犬掛の古戦場辺りにありましたが、明治8年(1875年)に廃寺になっています。大雲院は初め里見義通の法号をとって天笑院(或いは天昭院)と称し、義豊を葬ってからはその法号により高巌院と改め、その後さらに大雲院に改めたといわれていますが、龍喜寺と同じ由緒をもっており不明な点が多くあります。また観応2年(1351年)に創建されたという説もあります。里見氏からは北郡犬掛村で20石の地を与えられていました(慶長11年・15年分限帳)。臨済宗で、本尊は聖観世音菩薩だったということですが、廃寺のときに近くの貝津田観音堂に移されています。山裾にある二基の層塔は義通・義豊父子の墓と伝えられ、大雲院にあったものだということです。


(1) 萬勢稲荷{ばんせいいなり}社

 棟札と社記によれば、文化8年(1811年)8月に「天下泰平・国家安穏・五穀成就・風雨順時」を祈願して豊川稲荷(愛知県)をここへお祀りし、その後万延元年(1860年)に修復、さらに平成13年(2001年)に朱塗りの現社殿を再興した。稲荷は「稲成り」から転訛したともいわれ、農耕の神としても信仰されている。

(2) 諏訪大明神

 信濃国一宮の諏訪大社をお祀りしている。当寺十一世のとき、寛政5年(1793年)2月に高月の組中で建てたもので、当時の名主勘左衛門の名があり、ふもとの長福寺にその墓がある。石工は高崎の与兵衛。善光寺参詣の帰途に諏訪大社に立ち寄って譲り受けてきたのではないかといわれている。

(3) 高月{たかつき}城跡

 滝田城の川向いに位置し、平久里川と平久里道を見下ろす場所にある。北側には犬掛の古戦場跡、南側には滝田川又の古戦場跡がある。標高150m、比高差100m、寺のある台地とその裏山が戦国時代の城跡で、遺構として曲輪・空堀・土橋・虎口がみられるそうである。現在は畑や山林となり、龍喜寺の境内としても使われている。

(4) やぐら

 龍喜寺周辺には、鎌倉を中心にみられた中世の横穴式墳墓であるヤグラが分布する。字滝山にある高月Aやぐら群はふたつのヤグラが並び、左のヤグラには宝篋印塔が据えられている。小型だが丁寧につくられたヤグラである。高月城跡の山裾には道に沿って高月Bやぐら群(字寺台)があり、三つのヤグラが並んでいる。中には多数の五輪塔があり、地元では五輪様とよんでいる。

(5) 義通・義豊の墓

 この墓は層塔という形式のもの。本来は奇数の笠を積み上げるので失われたものがあることがわかる。大雲院が廃寺になったときこの墓も観音堂に移転したが、明治42年(1909年)に里見氏の墓域整備が行なわれたときに、水田になっていた寺の跡地近くに戻されたものである。周囲の石垣はそのときにつくられた。地元では昔から里見義通・義豊父子の墓と伝えられていたという。稲村城で安房国の国主として君臨した義通は、法号を天笑院殿商山正皓居士という。一般に永正15年(1518年)没、享年38歳とされるが、もっと長生きしていたことがわかっている。義通の跡を継いで国主となり天文の内乱をおこした義豊は、高巌院殿孝山長義居士といい、天文3年(1534年)4月6日に犬掛の合戦で討ち死にした。享年21歳といわれるが、実際には40歳前後にはなっていたと考えられている。義実はじめ義通・義豊などの前期里見氏の経歴や歴史は、内乱を勝ち抜いた義堯以降の後期里見氏によって書き換えられていたことが、近年明らかになってきている。

(6) 古戦場碑

 天文2年(1533年)7月、里見義豊の叔父実堯が、同盟者の正木通綱と反義豊勢力として力をつけてきたことから、危機感を抱いた当主義豊は実堯・通綱らを稲村城に招いて粛清した。残された息子義堯ら実堯の一族は、小田原北条氏の助けを受けて勢力の巻き返しをはかって攻勢をかけると、9月には義豊方の最後の拠点になった滝田城を落とし、義豊は西上総の真里谷氏を頼って落ち延びていった。そして翌年上総から攻め入った義豊は、4月6日に滝田城に程近い犬掛付近で、北条氏綱の援軍を得た義堯と合戦に及んで討ち死にした。かつて大雲院前の水田の中ほどには10坪余りの草地があって、「古戦場」と刻した小碑が建ててあった。昔からその辺を勝負田と呼ぶそうで、里見の古戦場と言い伝えている。これが犬掛古戦場で、すこし南にある上滝田区の川又もこのときの古戦場と伝えられ、討ち死にした人々を祀る十三塚というものがある。古戦場碑は耕地整理によって現在地に移されるまでは、すぐ前の田んぼの中ほどにあったそうである。

(7) 五輪塔

 古戦場碑の上にいくつかの五輪塔がある。犬掛石塔群(字北沢)として知られ、石組のようなものの上に安置してある。ヤグラが崩落したものかもしれないが確認できない。五輪塔はひとつの石を刻んで五輪塔のかたちにした一石五輪塔である。



<作成:ふるさと講座受講生 石井祐輔・加藤弘信・川崎一・川名美恵子・神作雅子・中村祐・長谷川悦子>
監修 館山市立博物館