住吉寺<千倉>  

住吉寺{すみよしでら}の概要

 南房総市千倉町南朝夷1353にある古刹で中嶋山住吉寺と称し、真言宗智山派で本尊は阿弥陀如来です。もとは千倉町南朝夷の寸場{すんば}(住場)という場所にあったと伝えられ、住吉寺の名は、今も隣接している住吉神社から名付けられたと言われています。境内に入ると正面が本堂、右手に庫裡{くり}があり、観音堂は左手急な石段を登ったところにあります。その昔は海中の岩上に御堂があって船で参拝していましたが、元禄の大地震で海中が隆起し陸続きになったそうです。海中にあったころに中島と称し、その名が山号に残って中嶋観音と呼ばれているわけで、住吉寺の裏側を流れている川尻川までが海岸線だったといわれています。石段の途中などの境内には幾つかの句碑があり、大阪の住吉大社が歌の神社として名を知られていることと関係があるとも考えられます。観音堂の向拝{ごはい}は初代後藤利兵衛橘{たちばなの}義光の作品で、義光が70歳の時(明治17年=1884年)に作られています。安房国札観音霊場の27番札所として参詣の多いお寺です。


(1) 二十三夜尊

 本堂左手の洞窟の中に二十三夜尊(勢至菩薩{せいしぼさつ})が祀られている。明治の頃、沖で漁をしていた時に網にかかり、これを漁師が奉納したものである。地元の人達の信仰を集めており、毎月23日の明け方に、豊漁と海上安全を願って家族達がお参りをしている。

(2) 建部冬塢{たけべとうう}句碑

 「一たひは 消る日もあり 富士の雪」 建部冬塢{とうう}は本名を建部與惣太{よそうた}といい、元越後高田藩(上越市高田)の武士であったが、明治26年(1893年)に曦{あさひ}村(千倉町)に移住してきた人物。俳諧に通じて居中庵{きょちゅうあん}冬塢と号し、85歳になっても元気であることを記念して、地元の同好者が明治30年に高さ150cmの句碑を建立した。明治34年(1901年)3月亡くなり観音堂の脇に墓が建てられている。

(3) 土佐與市{よいち}の頌徳{しょうとく}碑

 與市{よいち}は宝暦8年(1758年)に紀州日高郡印南{いなみ}村(和歌山県印南町)で生まれ、長じて鰹節{かつおぶし}の土佐節製法の名人になった。與市は30歳の頃家を出て東国へ向い、転々としながら千倉へ着くと、南朝夷村の網元渡辺久右衛門に厚遇され、その温かい人情にふれて秘法の燻乾法{くんかんほう}を伝授した。與市の指導で千倉産の鰹節は一躍有名になり、その方法は房州の各地に広まった。文政12年(1829年)、57才没。明治28年に鰹節製造の祖として土佐の與市の報恩碑が建てられた。近くの東仙寺にある土佐の與市の墓は南房総市の指定史跡となっている。

(4) 国札観音標石

 「安房国札27番中島山住吉寺」の寺号と「正{しょう}観世音菩薩」の尊号が書かれた碑。平館{へだて}の五郎左衛門(屋号)こと鈴木豊治が、昭和3年(1928年)に奉納したもの。

(5) 回国塔

 天保10年(1839年)に、四国八十八か所と西国・坂東の観音巡礼の満願を記念して奉納された回国塔。弘法大師坐像と一体になった台座には、願主として忠右衛門他7名と豊前国菊(企救{きく})郡(北九州市)の豊谷善了■■・良森善妙禅尼の名、世話人2名の名が刻まれて石龕の中に納められている。菊の郡{こおり}はアワビや海産物の名産地だが、漁業が縁で千倉に奉納されたかどうかは推測の域を出ない。

(6) 渡邊半醒{はんせい}句碑

 渡邊半醒は通称を作左衛門といい、南朝夷村の人。碑には「一生は案外に短くあっという間に過ぎてしまった」と前置きして、「いとやすき 世と思いけり 花七日」と詠んでいる。観音堂への上り石段脇に高さ87cmの句碑を明治25年(1892年)春に建立した。

(7) 桂酬{けいしゅう}句碑

 あまりに見事な秋の景色に見惚れて、「山里や 秋をつくして 柿の色」と桂酬が詠んだ句を、俳諧の同好会旭連{あさひれん}が桂酬を慕って、明治28年(1895年)秋、観音堂上り石段脇に高さ71cmの句碑を建立した。桂酬については未詳。

(8) 住職墓碑

 文化2年(1805年)に建てられた宝塔形の住職慈敬の墓碑。正面に法名、塔身二面には梵字{ぼんじ}で宝篋印陀羅尼経{ほうきょういんだらにきょう}が彫られている。

(9) 子育て地蔵

 左手に子供を抱いた地蔵菩薩立像で、文化6年(1809年)11月に建てられている。施主の名は風化が激しく判読できない。

(10) 六地蔵経典供養塔

 僧日稚が光明真言{こうみょうしんごん}6億万遍と往生真言{おうじょうしんごん}2万巻、陀羅尼経{だらにきょう}5万巻を唱えきって建てた納経塔。六角の塔身に六地蔵の浮き彫りと経典名がある、細身の美しい塔である。文化6年(1809年)のもの。

(11) 六十六部供養宝塔

 法華経{ほけきょう}経典を日本全国66か国に納経して回る巡礼者を六十六部{ろくじゅうろくぶ}、略して六部{ろくぶ}と呼んだ。貧者は経典の代わり厨子{ずし}を背負って勧進{かんじん}しながら回る者も多く、行き倒れや六部隠しなどにもあう苦難の旅であった。この宝塔は六十余国八霊場回国を終わるに至り、結願供養のため、江戸小田原町の伊丹屋半兵衛・信州松本の上条源治(屋号松尾屋)の2名が願主となり、鈴木新兵衛が施主として陀羅尼経{だらにきょう}を納経し、遠近の縁者によって延享元年(1744年)に建てたもの。基壇{きだん}側面と蓮華座{れんげざ}の花びら一枚ずつに、二世安楽を願った寄進者の法名83名分が刻まれている。宝塔を建てる事によって仏舎利{ぶっしゃり}が無くても、塔の中にはすでに多宝如来がおられ、法華経を保つものは真の仏子{ぶっし}であるとの教えに由来する。

(12) 五輪塔墓碑

 江戸・明治時代の歴代住職の墓などがある。2基は五輪塔で3基は無縫塔{むほうとう}。

(13) 観音堂

 天保年間(1830年~1844年)に改築された三間四面の御堂に、行基{ぎょうき}菩薩作と伝える正{しょう}観世音が安置されている。外陣{げじん}には江戸末期の百観音巡礼奉納額が掲げられている。向拝{ごはい}彫刻は初代後藤義光の作品であり、向拝裏には北千倉漁師中世話人・当所世話人等の連名がある。観音堂外周の海老虹梁{えびこうりょう}・象鼻{ぞうばな}・獅子鼻{ししばな}などには寄進者の名が刻まれている。

(14) 桃阿{とうあ}・枕石{ちんせき}師弟句碑

 明治期の俳人で現南房総市千倉町在住の吐月{とげつ}・得牛舎{とくぎゅうしゃ}桃居(忽戸{こっと}の人)などが、明治23年(1890年)に建立した先人師弟2名の句碑。高さ132cm。ともに俳人であり僧侶としても師弟関係と思われる。師匠の得牛舎桃阿(文化・文政期の人)が月の見事さを座禅の心境に例えた「名月や ここを座禅の 無東西(東西は青を表す)」と、弟子の枕石(文政~安政期・千田{せんだ}の人)が早朝の景色を詠んだ「霜おくや 雲の中なる かねの聲」の2句。

(15) 船繋石{ふなつなぎいし}

 御堂はかっては海中にあり、船で参拝した。その名残で、今でも観音堂の岩上前方に船が係留されたといわれる岩石がある。高さは約1mあまりでいかにもその風情がある。

(16) 墓地地蔵尊

 この基壇には、延享{えんきょう}年間(1744年~1748年)頃から寸場{すんば}にあった墓地が手狭になり、憂慮した住職が信徒の協力で明治43年に隣接地を開墾し、また買い求めて一反余りの新墓地を設けたと刻まれている。そこで先祖代々の霊を慰めるため、地蔵を奉安して記念としたものである。大正6年7月9日の建立で住職は石井宥忍{ゆうにん}、下段には寄付人名と金額がある。



<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 鈴木正・中屋勝義・吉村威紀>
監修 館山市立博物館