日運寺<丸山>  

日運寺{にちうんじ}の概要

 南房総市加茂にあり、勝栄山日運寺といいます。日蓮宗で本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊{しょうえいぼう}という真言宗(天台宗説もある)の小堂で、宗祖日蓮聖人が小湊へ帰る途中この堂に止宿{ししゅく}されたことが縁で、当時の住職が聖人に心服し日蓮門下に改宗したそうです。約300年後、里見の重臣正木時通{ときみち}と弟頼忠{よりただ}は村の押本右京亮{うきょうのすけ}と図り、元亀2年(1571年)に勝栄坊を再興、勝栄山日運寺と改めました。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大旦那として主君里見義頼に願い出て寺領を寄進、その後徳川幕府からも寺領10石の御朱印を賜っています。第15世日典{にちてん}は享保8年(1723年)の鐘楼{しょうろう}堂をはじめ、仁王門や祖師堂も建て寺門興隆に尽くしました。江戸中期には異常旱魃{かんばつ}で苦しむ村人の窮状を救うために、読経{どきょう}断食{だんじき}苦行{くぎょう}を行った住職が2人もいます。大正12年(1923年)の大震災では本堂などは倒壊焼失し、第29世日慈{にちじ}が昭和12年(1937年)に現本堂を造営しました。第32世日周{にちしゅう}は昭和56年(1981年)の日蓮聖人七百遠忌記念事業として、仁王門の屋根改修、七面堂再建などを行ないました。昭和45年(1970年)には2万株のあじさいが境内に植樹され、房州のあじさい寺と呼ばれるようになって、毎年多くの参詣者が訪れています。


※題目塔

(1) 山号寺号碑

 「南無妙法蓮華経 宝暦4年甲戌 4月吉辰日」と記してある。

(2)題目塔

 明治31年(1898年) 日實 一千日間一千部読誦、心願成就

(4) 題目塔

 寛政9年(1797年) 日鑑 一万部 天長地久五穀豊饒当郷安全

(16) 題目塔 

 天保9年(1838年) 佐藤家 一万巻、心願成就

(22) 題目塔

 安永2年(1773年) 日願 五百遠忌、報恩謝徳

(23) 題目塔

 文政12年(1829年) 日忍 五百五十遠忌報恩謝徳、一千部成就

(11) 題目塔

 明治14年(1881年) 日實 六百歳遠忌

(15) 題目塔

 昭和56年(1981)年 日周 七百遠忌報恩塔

(3) 日蓮聖人御杖井戸{おつえいど}跡  (12) 日蓮聖人御杖井戸

 文永元年(1264年)、当地に立ち寄った日蓮聖人{しょうにん}が、村人から井戸水が悪くて飲み水に不自由していると聞くと、自ら錫杖{しゃくじょう}で聖地を定め、掘ってみると清水が湧き出たという。大正中期まで十王堂跡(現集荷所)にあったというが、昭和8年(1933年)頃に道路改修のため黒門跡前(図3)に移され、現在は境内(図12)に移転した。

(5) 征清彰功{せいしんしょうこう}二士碑

 豊田村恤兵{じゅつぺい}会による建立で、明治28年(1895年)、日清戦争に従軍途中に戦病死した同村出身の二兵士の功を彰した碑である。正面の題字は北条にいた伯爵万里小路通房{までのこうじみちふさ}の書である。◎故要塞砲兵二等卒角田太吉 豊田村加茂住、大連旅順{だいれんりょじゅん}の攻撃戦闘に加わる。(享年23) ◎故工兵上等兵高澤龍蔵 豊田村沓見住、旅順口及び威海衛{いかいえい}攻撃、各種工事に従事。(享年29)

(6)(7) 大坪流馬術第17世西田由兵衛勝幸顕彰碑

 (6)大坪流{おおつぼりゅう}馬術兵線有功顕彰碑は元治元年(1864年)の建立で、もとは旧加茂坂山中の馬場にあったが、平成初め現在地に移された。馬上の人物が浅く彫られ、「鞍の内十五の曲{ふし}と鐙{あぶみ}には八つの品ある物と知るべし」の他、大坪流馬術の極意{ごくい}が記され、下段に島田勘右衛門勝英門人西田由兵衛{よしべえ}勝幸と見える。裏面は発起門弟澤文弥や施主の名がある。由兵衛は加茂の出身。馬術の達人で大坪流17世を継ぎ、後に忍{おし}藩松平家の馬術師範となった。安政6年(1859年)没、59歳。(7)碑は明治45年(1912年)孫の西田欣太郎{きんたろう}が建立した。

(8) 仁王門 (昭和53年 南房総市指定文化財)

 享保11年(1726年)建立後、第22世日忍{にちにん}が再建した。円柱の八脚門で柱は朱塗。屋根は茅葺{かやぶき}であったが、昭和56年(1981年)に銅板葺に改修した。本尊は執{しゅ}金剛神(仁王)で、天井には地元の角田文平による迦陵頻伽{かりょうぴんが}(極楽にいるという想像上の鳥)が描かれている。

(9) 榧{かや}の木 (昭和50年 南房総市指定天然記念物)

 仁王門をくぐると参道をさえぎるように横たわり、樹齢約600年と推定される。大正6年(1917年)に強風により倒れ、昭和50年根本保護工事が施工された。樹高17m、根本幹廻り2.5mである。

(10) 本地堂(上行菩薩)

 上行{じょうぎょう}菩薩像は明治12年(1879年)、第26世日實{にちじつ}の建立。台座のそばに犬の像がある。日蓮聖人は上行菩薩の後身と自覚して法華経を広めた。身体の悪いところを水で洗うと治るといわれている。本地堂は昭和56年(1981年)の報恩記念事業で建て替えられた。

(13) 富士川遭難者供養塔

 明治22年(1889年)7月12日、寺の壇信徒が身延山{みのぶさん}参拝団として富士川を船で下る途中、激流に船頭の棹{さお}が折れて岩角に激突し、破船転覆し、一行14名中11名が溺死、3名が助かる事故があった。供養塔は明治22年、第26世日實{にちじつ}が遭難者の菩提を弔うため建立したもの。

(14) 佐藤文志{ぶんし}歌碑

 文志は加茂の佐藤文次郎家の人で、(16)塔の願主。絵や書にも優れた文人で、明治初期に活躍した。碑は72歳の辞世の歌。「かりの世の ながのいとまを まちわびて かえるぞうれし ふるさとのみち」

(17) 正木時通・頼忠の墓 (昭和54年 南房総市指定史跡)

 勝浦城主正木時通は、元亀元年(1570年)、里見義弘の命により伊豆へ出兵するも、戦いに敗れて伊豆の寺に蟄居、数か月後に出家帰房して日運寺を開き中興の祖になったという。天正3年(1575年)没。墓は宝篋印塔で第7世日性{にちしょう}が建てた。頼忠は時通の弟で、時通死後の勝浦城主。加茂村の所領から寺領を寄進した。家康の側室で水戸・紀州両徳川家の生母お万{まん}の方{かた}の父である。元和8年(1622年)没。笠塔婆{かさとうば}の墓が寛文2年に建てられた。

(18) 眼鏡橋記念碑  (19) 石段親柱

 石段下の建物跡地に、大雨を受けるために堀のように細長い池が造られ、庭園の一部として眼鏡橋{めがねばし}があった。大正3年(1914年)、第28世日應{にちおう}の建設。大正11年の写真が現存するが、12年の震災で壊れたらしい。70cm程の碑が残る。石段の上部両側にある親柱から、石段は大正8年(1919年)の建設。ともに石工は地元の鈴木良助である。

(20) 手水鉢

 文政8年(1825年)に祖師堂境内に奉納されたもの。終戦後本堂前の現位置に移された。押本宇兵衛他20名近い奉納者名が刻まれている。

(21) 本堂

 大正3年(1914年)現在地に建立されたが、関東大震災により倒壊焼失し、第29世日慈{にちじ}が昭和12年(1937年)に間口9間奥行8間半の現本堂を造営した。向拝{ごはい}の龍の彫刻は元の祖師堂のもので、欄間彫刻には地元の後藤伝七郎の作とある。軒先の喚鐘{かんしょう}(半鐘)は天保8年(1837年)に造り直されたもの。

(24)(25) 日鑑上人入定窟 (昭和50年 南房総市指定史跡)

 第18世日鑑{にちかん}は現館山市広瀬の出身で、住職として29年間在職した。日蓮聖人の五百遠忌に祖師堂を再建し、2度の法華経一万部誦経{じゅきょう}を遂げた。寛政3年(1791年)には光格天皇皇后の病気平癒{へいゆ}祈願のため上洛して導師をつとめ、その功で幕府から10万石の格式を与えられた。また天明5年(1785年)夏の旱魃{かんばつ}では雨乞{あまごい}祈願をして村人を救い、晩年には裏山の窟{くつ}に断食入定{にゅうじょう}し、文化5年(1808年)入滅{にゅうめつ}した。その徳を慕って6月には「入定祭り」が行われ、寺から請雨塔(図26)まで行列が組まれて鮒鯉供養の法要が営まれた。この行事は戦前まで続いていた。(図25)は指定史跡の入定窟{にゅうじょうくつ}で、中には石造武人像などが安置され、昔は清正{せいしょう}公ヤグラと呼ばれていたという。入定した窟は(図24)のヤグラではないかという説もある。

(26) 請雨塔{しょううとう} (昭和50年 南房総市指定史跡)

 明和8年(1771年)の異状旱魃による村人の窮状を見た第17世日敬{にちけい}は、加茂の堀切堰で請雨{あまごい}の祈願をして村人を救った。その後日鑑{にちかん}も堀切堰で雨乞祈願をし、これを期にこの堰での鮒{ふな}や鯉の捕獲を禁じた。両上人の功を称{たた}えて、天保11年(1840年)、第23世日禎{にちてい}たちによって請雨塔が建立された。



<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 石井道子・加藤七午三・金久ひろみ・青木悦子>
監修 館山市立博物館