山名熊野神社<三芳>  

山名熊野神社の概要

 明治22年(1889年)、市制・町村制の施行により隣接する池ノ内・中・御庄{みしょう}・山名(い・な・み・や)が合併して「安房郡稲都{いなみや}村」となった。この稲都地域は古くから、「平郡の除戸郷の分域」や「熊野の群房庄」の言葉が残されている歴史ある土地柄である。山名の熊野神社(祭神伊邪那岐命{いざなぎのみこと})はこの村の東端にある山名嵯峨志{さがし}の中央台地に祀られている。明治16年(1883年)の『山名誌』によると、当社は当初安房水上神社と称されていたが安房と冠するのは安房神社だけであるとの抗議があって水上神社に改めたと伝えられている。この神社は文亀2年(1502年)に熊野本宮大社より勧請されたものだが、勧請{かんじょう}(創建)に至る経過の詳細は明らかではない。稲都村も昭和28年(1953年)には隣接する滝田村、国府村と合併し「三芳村」と改称する。山名熊野神社が祀られる経過は不明だが、稲都地区には「熊野群房」という言葉が残されているように、この地には新{いま}熊野神社の社領「群房庄」が存在していた。
熊野三山(本宮{ほんぐう}大社、速玉{はやたま}大社、那智{なち}大社)への信仰は、熊野先達{せんだつ}の盛んな活動もあって中世に全国へ広がり、各地に熊野神社が勧請された。三芳村には4社、安房郡では37社を数え、この地域においても多くの熊野神社が創建されている。なお、三芳村は平成の大合併により近隣7町村と合併し南房総市となり、神社の所在地は南房総市山名667番地となる。

(1)熊野参宮記念碑

 熊野本宮へ参宮したと思われる記念碑で、この地区の人々の代参があった。右の石柱には「昭和九年(1934年)五月二十八日」と刻まれている。

(2)両部{りょうぶ}鳥居跡

参道を登りつめた所が二の鳥居の跡で礎石が残っている。老朽化して倒壊したもので、現在は社殿の脇に笠木が残されている。規模は小さいものの鳥居の形式は両部鳥居である。
両部鳥居とは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児{ちご}柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎{こんたい}両部(金剛界・胎蔵界)をいい、神仏習合を示す名残りである。

(3)めがね橋

 参道を登りつめた先に、下の農道と立体交差する石橋がある。明治期の作と思われ、切り出した石材を巧みに組み合わせ、お互いに支えあって出来ている一眼のめがね橋である。石は山名の寺山石(智蔵寺の裏山)を使用しているという。山名地区にはこのような橋が以前は数か所あったというが河川改修で取り壊され、現在残っているのはこの橋と智光寺付近の山名川、飯(いい)出(で)の奥の3か所となった。当時の石工の巧みな技術がしのばれ、保存し後世に残したいものである。

(4)石灯籠一対

 境内には二対の石灯籠があるが、そのうち一対には「御神燈」と刻まれている。

(5)出羽三山碑

 羽黒山・月山・湯殿山(山形県)の参拝を記念した碑で、台座には安田楳吉{うめきち}以下13人の名がある。昭和21年(1946年)8月19日の建立。

(6)手水石

 この手水石には「嗽水{そすい}」と刻まれている。手水石の形は長方形状の丸みのある自然石を瓢箪の形にくりぬいて作ってあり、その周囲には瓢箪の葉の模様が刻まれている。嗽とは「口をすすぐ」の意。嵯峨志の有志が明治15年(1882年)に奉納したものである。

(7)田原次郎作の碑

 西南戦争に出征した故人を悼み建てた碑である。田原次郎作は明治10年(1877年)の西南戦争に東京鎮台陸軍兵として参加し、同年10月4日、コレラにより京都の陸軍避病院で死去した。山名村の出身で、享年23歳であった。

(8)出羽三山碑

 出羽三山に明治23年(1890年)4月、14名が参拝した記念碑である。

(9)慰忠魂碑

 憲兵曹長であった小柴善次郎は台湾で明治31年(1898年)に亡くなり、陸軍二等卒であった海瀬松蔵は佐倉で明治19年に亡くなった。この二人を祀った碑は明治32年秋に建てられた。高さ2.65m。

(10)狛犬

 左右の狛犬は元治元年(1864年)に地元嵯峨志の若者中が奉納したものである。

(11)忠魂碑

 明治から昭和にかけての戦中に亡くなった5人を祀った碑である。田中太一は日露戦争中に清国海域で明治37年(1904年)に、古宮友次郎は満州事変・支那事変に従軍し昭和15年(1940年)に、蓑浦茂は満州国奉天で昭和11年に、田中良太は支那事変中の南京で昭和13年に、渡邊正は支那事変に従軍し北支で昭和16年に亡くなった。その中で田中太一は武功抜群の功を上げ金鵄{きんし}勲章を授けられている。建立した者の名はない。

(12)出羽三山碑

 明治42年(1909年)、出羽三山に参拝した記念碑で、君塚武兵衛以下14名の名がある。他に3つの山の名「黄金山(宮城県)・恐山(青森県)・岩木山(青森県)」があるのは、その時同時に参拝したものと思われる。

(13)出雲大社参宮記念碑

 出雲大社に大正6年(1917年)に鈴木近五郎以下11名が参宮したことを記念して、大正8年に建てられたもので、文字は安房神社宮司の菅{すが}貞男{さだお}が書したものである

(14)社殿

 社殿の天井は「格天井」で、作者は不明だが80枚の絵が描かれ、絵にはそれぞれ奉納者の名がある。その他、社殿内には「寿山」などにより描かれた多くの絵馬が奉納されている。正面中央に寛政8年(1796年)奉納の熊野大権現の「神名額」、正面右上には「小柴先生追想記念額」がある。小柴先生は大正15年(1926年)に亡くなり、昭和2年(1927年)に安房尚武会稲都支部の人達と賛同者・門人などによって奉納された。名は太郎吉といい、宮内庁で剣道を指南していたという。剣号は月剣といい、2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏の祖父にあたる。向拝の龍は初代後藤義光の門人の後藤次郎治光作で、明治29年(1896年)に嵯峨志の若者中が奉納した。彫刻料の寄付人は蓑浦五右衛門夫妻。

(15)鎮守の杜

 熊野神社は樹林が繁茂し、神社の杜として荘厳である。本殿裏には樹高25m、胸高周囲395cmの杉の巨木があり、御神木となっている。境内には多くの植物があり、2007年の調査で148種を数える。境内登り口付近にはホウライシダ、社殿前ではイワニガナやホドイモが見られ、林床にはツルコウジが目立つ。その他ホルトノキ、スダジイ、タブノキ、クロガネモチ、クスノキ、シラカシの巨木などが多く残されている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 川崎 一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館