大山不動と高蔵神社<鴨川>  

大山不動尊(大山寺)と高蔵神社の概要

鴨川市平塚1723

大山不動の名で知られる高蔵山大山寺は神亀元年(724年)に良弁{ろうべん}僧正が開山したと伝えられる。相模大山不動、成田不動と並ぶ関東三大不動ともいわれ、雨乞いの霊地として地域の人々から厚く信仰されてきた。源頼朝、足利尊氏、里見氏の信仰を受け栄えたが、天正期の戦乱で衰退したため天正14年(1586年)に再興。その後享和2年(1802年)にも再建された。江戸時代は天台宗聖護院{しょうごいん}(京都市)末の修験寺で、修験道の廃止により明治5年(1872年)に真言宗になるも、庶民に浸透した修験道の思想は講となって今も受け継がれている。また、大山寺の別当だった安田家には大山寺の歴史や信仰を伝える資料が「安田文書」(県指定)として残されている。高蔵山山頂にある高蔵神社(石尊{せきそん}様)は大山寺と共に良弁僧正が創建しており、幕末まで大山寺が別当寺だった。源頼朝や足利尊氏が水田を寄進、社殿及び石段を築造したと伝える。天保11年(1840年)に正一位石尊大権現高蔵神社と称し、明治6年(1873年)に長狭21村(大山・主基・吉尾)の郷社となった。県指定の北風原{ならいはら}の鞨鼓舞{かっこまい}は大山不動に奉納された雨乞祭である。

(1)高蔵神社表参道の鳥居と社号碑

嘉永7年(1854年)9月に奈良林村中を願主として寄進された。脚元には建立年と世話人・石工など16名の名がある。鳥居の手前に天保11年(1840年)に称を許された「勅{ちょく}正一位多加久良{たかくら}神社」の碑が建っている。

(2)滝本堂跡

かつて存在した修験の寺。安房国札観音巡礼第34番札所の長徳院滝本観音堂としてここにあったが、明治以降荒廃し、昭和30年(1955年)に本尊千手観音菩薩立像を大山寺不動堂内に移して廃寺となった。

(3)仁王門

朱色の入母屋造りの山門。関東大震災で倒壊したが後に再建された。震災による被害を受けなかった木造仁王像が祀られている。

(4)表参道石段寄進碑

最上段の左右に天保3年(1832年)に奉納した石段に関する石造物の一部基礎がある。途中にも明治25年(1892年)に石段275段の修復を記念した一対の碑があり、ともに発起人や寄進者名などが記されている。

(5)手水舎{ちょうずや}

三代後藤義光作とされる木鼻の振向き獅子がつく。奥には役行者{えんのぎょうじゃ}像が安置されており、銘はないが元名村の武田石翁{せきおう}作と伝えれられている。

(6)鐘楼堂

鴨川市指定有形文化財

不動堂よりも古く、江戸時代中期の建築と推定されている。柱の丸い土台に特徴があり、軒の四面にはそれぞれの方向に対応した十二支の動物が彫られている。梵鐘は昭和35年(1960年)に新鋳造された。

(7)常夜灯

棹{さお}と火袋には昭和58年とあるが、基壇にはそれよりも古いものが使われている。(10)戦没者碑の前に1基置かれた元の棹から、大山寺38世法印文喬{ぶんきょう}のとき文政2年(1819年)に建てられたものであることがわかる。

(8)不動堂

千葉県指定有形文化財

五間四方の堂は享和2年(1802年)の再建。宮彫師による装飾彫刻が施された厨子も同時期の再建とされ、中に県指定の木造不動明王坐像と矜羯羅{こんがら}・制吒迦{せいたか}の両童子脇侍立像(鎌倉後期)が祀られている。不動堂再建と前後して、鏡天井には龍図と飛天一対(狩野洞水画{かのうどうすいが} 内陣天井画は寛政11年(1803年)の同人作)が描かれ、鴨居の上には右から順に絵馬「西王母図」(藤原道貞筆)と「文覚{もんがく}上人霊験図」、句額「奉納俳諧四季之発句{ほっく}」(享和3年(1803年))が奉納されている。これらは本尊不動明王と共に修験の寺としての霊験のあらたかさと人々の信仰を今に伝えている。句額は前原町名主の高梨徐来が発願主となり、俳友の尾崎鳥周らにより奉納されたものである。なお堂内には、十王像(元和6年(1620年))、安房三十六不動尊巡礼の第36番結願ご詠歌額(大正6年(1917年))、恵比寿・大黒天像、聖徳太子孝養像、かつて(2)にあった千手観音菩薩立像(江戸時代)など様々な信仰対象が祀られている。

(9)不動堂向拝{ごはい}彫刻

妻飾{つまかざり}にある雨乞い神事の象徴としての怒涛の波と水柱に雲、さらに二体の龍のほか、木鼻{きばな}、手挟{たばさ}みなどにある彫刻は、武志伊八郎信由(初代伊八)の作。享和の本堂再建時に近郷の53人が寄進した。

(10)西南戦争従軍戦没者碑(従軍戦死十四人碑)

明治10年(1877年)2月に始まった西南戦争に長狭・朝夷の二郡から政府軍に従軍し、うち14名が戦死した事を記した顕彰碑。題字は初代千葉県令柴原和{やわら}。撰文は千葉県警部の藤田九萬。石工は江戸一番の碑銘彫刻師である広群鶴{こうぐんかく}。戦死した14名の名は刻まれていない。

(11)蚕傑竹澤章{さんけつたけざわあきら}の碑

昭和7年(1932年)、全国蚕業{さんぎょう}関係官民有志が建立。竹澤章は地元小畑{こばた}の生まれで、明治26年(1893年)に上京し『蚕業新報』を刊行。蚕{かいこ}を野外や土室の中で飼う新しい方法を考案した人物。題字は頭山{とうやま}満の揮毫{きごう}。

(12)飯綱権現祠{いづなごんげんし}

厨子{ずし}の中に、白狐に乗った烏天狗の像が祀られている。形態から飯綱権現を勧請{かんじょう}したもので、不動明王を本地{ほんち}にするとされる神である。

(13)神変大菩薩諡号碑{しんぺんだいぼさつしごうひ}

神変大菩薩{しんぺんだいぼさつ}は役行者{えんのぎょうじゃ}(役小角{えんのおづぬ}) の尊称で、光格天皇が寛政11年(1799年)の役行者1100年遠忌{おんき}の際に、神変大菩薩の諡{おくりな}をしたことを記念した碑。基礎の正面に獅子、側面には願主の人名・寺院名等が記されている。

(14)宝篋印塔{ほうきょういんとう}

大山寺33世栄乗の母と住職安田家の娘おさんが本願となり、悉地院{しつじいん}18世法印権大僧都宥長が勧化{かんげ}導師となり、延亨4年(1747年)に建立した。

(15)大乗妙典書写供養塔および経塚{きょうづか}

大山寺38世法印文喬が文政6年(1823年)に建立した法華経書写の供養塔。先師栄充が小石に法華経を書写して埋納するいことを志願し、五老尊師の要請で文喬が引き継いだ。石経を埋めた経塚は高蔵神社社殿前にある。

(16)出羽三山碑

享保11年(1726年)に山王院法師良恵が本願となって建立。中央に「月山」右に「湯殿山」左に「羽黒山」とあり、その下に梵字{ぼんじ}で大日如来真言がある。大山の4名と平塚村の2名は三山講の講中である。

(17)石段寄進碑

高蔵神社石段を文政9年(1826年)に寄進した碑。平塚村の願主・世話人の名がある。石段親柱には万延元年(1860年)の修理願主等の名も刻されている。

(18)大山保存林記念碑

雨乞い祭を継続してきた大山を、公園として保存するため山林が寄付されたことを記念した碑。明治36年(1903年)建立。題字は郵便の父前島密{ひそか}。撰文は元 住職で衆議院議員の安田勲、書は辻真茂、石工は村上寅之助。

(19)観音の碑(8基)

石尊様に奉納した観音の碑。「石尊御宝前」と刻された6基の石碑には、天人丈夫尊などの古い天台六観音の名が記されている。他の2基には観音経偈文{げもん}の一部がみられる。平塚村の講中が施主になっている。

(20)富士浅間祠(3基)

右側の浅間碑は、山水{やまみず}講中の一等修行者「来山参行(小原治右衛門)」が、明治32年(1899年)に富士登山50度大願成就したのを記念して建てたもの。他に浅間神社(明治11年)・小御嶽{こみたけ}大神(明治期)の祠{ほこら}がある。

(21)高蔵神社および灯籠

雨乞い祈願所として数々の話が残されている神社。大正期には祭典後に雨乞いの鞨鼓舞{かっこまい}が演じられたが、現在は当番区によって獅子舞が演じられている。また社前にある灯籠には荒川村・上の銘があり、近隣広域にわたって信仰の拡がりがあったことが窺われる。

(22)開山良弁{ろうべん}大僧正旧跡碑

文化14年(1817年)、37世権大僧都法印栄充による建立。銘には良弁僧正が東国下向{げこう}の折、伊勢原の大山から東方の空にたなびく紫雲を見て、それに導かれるようにして、この平塚の大山にたどりつき、大山寺を霊山として開くことになったという由来が刻されている。

(23)宝篋印塔{ほうきょういんとう}

鴨川市指定文化財

文和2年(1353年)造立のほぼ完形の宝篋印塔で、千葉県内では最古の部類に位置付けされる。なお足利尊氏が建てた安房の利生塔は大山寺にあった。

(24)火産霊神碑{ほむすびのかみ}

火伏{ひふせ}の神様であり、伊弉諾命・伊弉冉命の最後の御子神{みこがみ}である。両脇の奥津比古神{おきつひこのかみ}と、奥津比賣神{おきつひめのかみ}は台所・かまどの神様と言われる。

(25)平塚参道不動明王像

平塚地区からの参道に木製の鳥居があり、脇に大山寺不動尊の前不動として不動明王坐像が安置されている。文政3年(1820年)、平塚村名主の内木直右衛門が願主となり、平塚地区の人々により造立された。


作成=ミュージアムサポーター「絵図士」
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