智蔵寺<山名>  

智蔵寺の概要

南房総市山名386

曹洞宗で、富士山智蔵寺と号し本尊は地蔵菩薩。江戸時代に上総御宿{おんじゅく}にある真里谷{まりやつ}武田氏二代信勝の菩提寺・真常寺との間で本末寺の論争が起こり、真里谷武田氏初代信興{のぶおき}の菩提寺である上総国触頭{ふれがしら}の真如寺(木更津市)が仲介して、真如寺直末{じきまつ}の別格扱いとなって以来「山名の大寺」と呼ばれています。寺伝では文亀3年(1503年)、武田次郎三郎信勝を開基とし、弟の太厳存高{だいげんそんこう}を開山に創建されています。寛永15年(1638年)に、旗本・三枝守昌{さえぐさもりまさ}が安房国で一万石の大名となり、山名村本郷に陣屋を置くと、智蔵寺を菩提寺としました。本堂欄間には初代武志伊八郎作の「応龍」の彫刻(市指定)があります。

(1)六地蔵

 参道の途中に7体のお地蔵様が祀られている。左端の地蔵像は享保元年(1716年)に建てられた墓石。外の6体が宝暦4年~7年(1754年~1757年)に祀られた六地蔵である。木曽、請花{うけばな}、地蔵像の組み合わせにばらつきがあることから、後年に組み直されたのであろう。

(2)山門

 関東大震災で倒壊はしていないが、山門の建築時期を示す資料はない。しかし、15世住職が寛政年間(1789年~1801年)に七堂伽藍{しちどうがらん}を造影したとの古文書が残るので、その時期のものかもしれない。二段式の虹梁{こうりょう}や木鼻{きばな}その他、至る所に彫刻が施されているが、虹梁{こうりょう}端の処理に古い技法が見られる。昭和22年(1947年)の屋根替え後、昭和60年(1985年)に現在の銅板に葺{ふ}き替えられた。

(3)三枝守昌{さえぐさ・もりまさ}の墓

 宝篋印塔{ほうきょういんとう}が安房の大名三枝勘解由{かげゆ}守昌の墓である。法名は松獄院殿喜参宗悦大居士、没年は寛永16年(1639年)11月29日。享年55歳。裏面に「諏訪氏造立之{これをぞうりゅうとす}」とあるのは(4)の諏訪頼益{すわ・よります}のこと。戦国時代は甲斐武田氏に仕えた家で、主家の滅亡後徳川家に従う。元和8年(1622年)に徳川忠長に仕えて1万5千石となったが、忠長の改易により陸奥棚倉藩に「お預け」となった。のち許されて、寛永15年(1638年)に安房国三郡で1万石を賜り、大名として安房三枝藩を興すが、翌年に病で没し廃藩となった。

(4)諏訪頼益{すわ・よります}の墓

 三枝守昌の次子で勘兵衛という。母方の諏訪姓を継ぎ、子孫は代々諏訪勘兵衛と称した。寛永16年(1639年)に病死した父守昌の遺領は、翌年、兄守全{もりあきら}が7000石を継ぎ、弟の頼益に山名・三坂・海老敷村などの3000石が分けられて、ともに旗本となった。延宝2年(1674年)没。62歳。法名は端松院殿釼山全宝大居士。諏訪家は宝暦13年(1763年)三枝姓に戻り、天保13年(1842年)に知行替えとのあって安房を離れるまで、山名村で陣屋支配をした。

(5)歴代住職の墓(無縫塔{むほうとう})

 基壇を設けた崖際に、開山の供養塔を挟んで歴代住職の墓が並んでいる。12世以前の墓石は風化が著しく、どの世代の墓か不明。15世(松林骨禅大和尚)の墓にのみ、基礎に漢文で履歴や功績が刻まれ、寺の文書にも寛政年間に当寺の諸堂を再建した中興の祖と記されている。

(6)八木先生の墓

 「八木先生之墓」と刻された墓があり、寺小屋の先生のものではないかと言われている。師匠の墓を弟子が建てる例が多いが、この墓は建立者が不明である。過去帳によると、名は八木次郎といい、大名丹羽{にわ}家の家臣。嫡男は仙台藩浅野平助とある。嘉永7年(1854年)没。61歳。明治時代に小学校として使用された智蔵寺はそれ以前から寺小屋だったといわれている。

(7)女人講建立の地蔵尊

 文政6年(1823年)に嵯峨志{さがし}組と下{しも}組の地元女性たちによって、子供の成長やあの世での冥福を願って建立された地蔵尊である。幼くして亡くなった子供は親の恩に報いる孝行ができなかった罪で、賽{さい}の河原で苦を受ける。子供たちは娑婆{しゃば}の父母兄弟供養のために石塔積みを繰り返すが、そのたびに鬼が来てその塔を崩す。そこへ地蔵が現れ子供たちを救ってくれるという地蔵信仰がある。この地蔵尊の左手は願い事がかなえられる宝珠を持った子供を抱き、足元には二人の子供がいる。一人は錫杖{しゃくじょう}にすがりつき、もう一人は泣きながら石積みをしている様子が彫られている。

(8)裁縫の先生の墓

 大正7年(1918年)に72歳で亡くなった、21世住職密厳禅師の妻の墓である。把針{はしん}(裁縫)の生徒39名の名前が墓石の左右に刻まれている。学問などで世話になった弟子たちが、師匠の遺徳を偲んで筆子塚を建立することがあるが、この墓にも同様の気持ちが込められている。

(9)溝口八郎右衛門の墓

 出羽三山の行人{ぎょうにん}である。酒樽の上で徳利と盃を持つ姿は酒豪で知られた人物像を表している。正面には「無漏{むろ}」と刻まれ、煩悩から解放された境地に至ったことが示されている。天保14年(1843年)6月13日没、90歳。安房の名工の一人武田石翁による、天保12年(1841年)頃の作と伝えられている。

(10)君塚因幡{いなば}の供養塔

 山名村の人で、江戸初期に里見氏の家臣であった(『安房志』)とされ、寛永19年(1642年)8月20日に没した。君塚家墓域の中にある供養塔は、宝暦12年(1762年)に行われた121回忌の供養の際に建立されたと刻まれている。山名本郷には現在でも数件の君塚一族が住んでいる。

(11)念仏ばあさんの墓

 愛知県出身で、明治22年(1889年)に安房郡へやって来た「竹内しま」の墓である。37年間に安房郡内で800人もの弟子に御詠歌を教え、「山名の念仏ばあさん」と呼ばれていた。大正15年(1926年)5月9日、病により71歳で没した。墓は念仏講中の人達によって建立されている。

(12)田原次郎作の墓

 田原次郎作は山名の田原貞蔵の次男。明治10年(1877年)2月に始まり9月に終結した西南戦争で、東京鎮台の陸軍兵卒として政府軍に従軍した。明治10年(1877年)3月4日に大阪病院で死亡。享年23歳。戒名は天倫了兵居士。

(13)スタジイの古木

 本堂手前の急斜面の樹林中にある。株立状に太い幹が分岐し、たくさんの萌芽枝も認められる。胸高周囲は6.9m、樹高は約15m、樹齢200年以上とされる。「千葉県の巨樹古木200選」のひとつ。

(14)寺山石

 寺山石とは当寺の裏山より切り出され、建築材として使われた石のこと。切り出しは昭和30年(1955年)頃まで続いた。石は砂岩質からなる凝灰岩と呼ばれる石で、当寺の本堂や鐘楼堂の基礎材、また境内周囲の石垣などに使われている。他に山名熊野神社の参道にあるアーチ型の石橋や智光寺近くの石橋などにも使われている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎一・鈴木正・殿岡崇浩・中屋勝義・羽山文子・山杉博子 2018.8.27作
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