その1 平郡コース 



1番 那古寺{なごじ}

補陀洛山千手院那古寺
館山市那古1125

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「ふだらく(補陀落)は よそにはあらじ那古の寺 岸うつ波を見るにつけても」

本尊:千手観世音菩薩

 那古寺は坂東33番観音札所の結願寺{けちがんじ}でもある。開基は行基{ぎょうき}。中興の祖は慈覚{じかく}大師。源頼朝、足利・里見・徳川氏より庇護{ひご}を受け、鶴谷{つるがや}八幡宮の別当寺でもあったが、明治維新で寺領は没収された。元禄の大地震(1703年)で倒壊し、大正12年(1923年)の関東大震災でも被災したが、その都度再建修理され、更に近年大修理されている。千手観音菩薩の由緒は、養老元年(717年)元正{げんしょう}天皇の病気平癒{へいゆ}のため、行基{ぎょうき}が海中より上げた異木{いぼく}で千手観音像を彫り、祈祷により快癒されたことによる。本尊のほか国指定の銅造千手観音立像や、県指定の阿弥陀如来坐像・観音堂・多宝塔などの文化財がある。また境内には大蘇鉄{そてつ}や、「此{この}あたり眼に見ゆるもの皆すずし」「春もやや景色ととのふ月と梅」の芭蕉句碑をはじめ、忠魂碑その他の記念碑・顕彰碑や、元禄時代の石灯籠、その他石造物が数多くあり見逃すのはもったいない。裏山には自然林があり、山頂の「潮音台{ちょうおんだい}」からの展望は素晴らしい。


2番 新御堂{にいみどう}

潮音山新御堂
館山市亀ヶ原808-2

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「にいみどう みあげてみれば峰の松 くびこいつる(鶴)にかめいど(亀井戸)のみず」

 現在の新御堂は本来真言宗の秀満院境内地である。秀満院は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊していたため、昭和42年(1967年)に新御堂{にいみどう}が旧寺地から移転してきた。旧寺地は県道を挟んで反対側の山の中段にある。堂内には明治3年(1870年)につくられた大きな大黒天像も祀られている。境内の宝篋印塔{ほうきょういんとう}は明和5年(1768年)のもの。この周辺は蔵敷{ぞうしき}といい、律令時代の役所である国衙{こくが}などにいた下級役人「雑色{ぞうしき}」を意味する言葉が地名となったものであり、安房国府との関連が考えられる地域である。ご詠歌にある亀井戸が「亀ヶ原」の地名の由来といわれ、旧寺地には亀井戸が残されている。また文化年間の火災にかかるまでは、お堂へかぶるように「峰の松」があったと伝えられている。旧寺地には正徳4年(1714年)の石造地蔵菩薩像が立ち、現在地への入口になる辻の六地蔵と同時につくられている。


3番 崖観音{がけかんのん}

船形山大福寺(通称:崖観音)
館山市船形835

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ふなかたへ 参りて見ればがけづくり 磯うつ波はちよのかずかず」

 「崖の観音」で有名な大福寺は船形山の中腹にある。断崖の途中に張りついて見える赤い舞台造りの観音堂の中に「崖の観音様」が刻まれている。寺の由緒では崖観音は養老元年(717年)に行基{ぎょうき}がこの地へ来て崖に刻んだと伝えている。その後慈覚{じかく}大師により堂宇が建立されたが、承応{じょうおう}2年(1653年)の火災により朱印状・寺宝等すべて焼失、正徳{しょうとく}5年(1715年)に諸堂を再建したが大正12年(1923年)の関東大震災によってまたも倒壊、同14年(1925年)現在の堂宇を建立した。崖観音は平安時代の中頃に造られたと考えられる磨崖仏{まがいぶつ}として市の指定文化財である。船をふせた船底の形をしている船形山の観音様は、漁師などから海上安全の守護仏として信仰されてきた。船形では江戸時代から魚を江戸へ送っていたので、境内の灯籠などは魚河岸{うおがし}の魚問屋が奉納している。隣には船形の鎮守諏訪神社が鎮座しており、江戸時代までは大福寺が諏訪神社の別当を務めていた。堂の桁{けた}下には左甚五郎作といわれる十二支の彫刻があったが震災により損壊、現在は四支だけとなっている。堂の欄干{らんかん}越しの眺望はまさに絶景といえる。


13番 長谷寺{ちょうこくじ}

鳥数山長谷寺
南房総市下滝田486-1(旧三芳村)

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「わけゆきて きたりて見ればにしのやつ(西ノ谷) 長こく寺とはめいしょ(名所)なるもの」、以前は「とりすやま おく(奥)わけゆけばにしのやつ ちょうこくじとはめいしょなるもの」

 由緒は不詳だが安房国三十四観音霊場の第十三番札所として知られ、口伝{くでん}によると僧行基{ぎょうき}の開基と伝えられている。当初は近くの観音山の山頂にあったが、弘化3年(1846年)頃現在地へ移転されたという。現在のお堂は昭和63年(1988年)に改築されたもので、中には享保15年(1730年)の御詠歌額も残されている。境内には文政5年(1822年)建立の光明真言塔や、寛政3年(1791年)の「十三番札所道」と表示した石造の道しるべなどがある。


21番 智光寺{ちこうじ}

長楽山智光寺
南房総市山名1370(旧三芳村)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「光明寺 のぼりのどけきはるの日に 山名のはなのちるぞおしさよ」

本尊:不動明王

 火災にあい由緒は不明だが行基の開基と伝えられる。石段を登ると正面に観音堂、右手に庫裏{くり}、左手に阿弥陀堂がある。口伝{くでん}によると千手観音はその昔三郡山{みごおりやま}と称する山中にあった無量寿山光明寺の本尊だったが、江戸初期の元和{げんな}の頃に堀の内観音山に再興され、元禄7年(1694年)の住職智説{ちせつ}の時に智光寺境内へ移転、現在のお堂は宝暦13年(1763年)に再建されたという。阿弥陀堂は安永4年(1775年)に建築されたといい、参道入口には江戸中期頃と思われる仁王門がある。境内の手水{ちょうず}石は明治18年(1885年)のものだが、水受けがひょうたん型なのがおもしろい。観音堂の裏には寺子屋師匠だった宥界{ゆうかい}大法師の墓があり、安政5年(1858年)に山名や館山などの弟子たちによって建てられた筆子塚{ふでこづか}である。寺宝として市指定文化財の木造不動明王立像・木造阿弥陀如来坐像・木造金剛力士立像などがある。


22番 勧修院{かんしゅういん}

道場山勧修院
南房総市上堀35(旧三芳村)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「朝日さす 夕日かがやくこの堂へ まいる人こそ仏{ほとけ}なるらん」

 観音堂は1km余り山奥のリョウガイ山と称する所にあったが、宝暦2年(1752年)栄雅{えいが}の時に現在地へ移されたといわれ、跡地には今も観音堂の痕跡が残っている。旧観音堂付近には滝ノ上・鐘つき堂・稚児墓{ちごはか}などの地名があり、その昔の巡礼路{みち}が今も残っている。勧修院と呼ばれるようになったのは元禄の頃であるという。大正12年(1923年)の関東大震災により諸堂は全壊したが、同14年12月に旧本堂と庫裏{くり}が再建された。平成2年(1990年)に庫裏の新築工事が行われ、観音堂(現本堂)も平成20年に再建され、行基の作と伝えられる本尊の千手観音菩薩像や弘法{こうぼう}・興教{こうぎょう}両大師坐像、不動明王立像などが安置されている。なお旧本堂には大日如来坐像、向拝{ごはい}には木造の仁王像一対が安置されている。また観音堂を意味する「大悲殿{だいひでん}」の額は、地元光明{こうみょう}講中が明治期に奉納したもので金剛宥性{ゆうしょう}の筆である。境内には光明真言{こうみょうしんごん}五百万遍供養塔や、女性行者貞信尼{ていしんに}による天明8年(1788年)の廻国供養塔などがあり、墓地には漢学者「中村時中{じちゅう}」や、力士で出来山{できやま}部屋第5代親方の「常盤戸{ときわど}文吉」、政治家で実業家の「中村庸一郎{よういちろう}」等の墓がある。


23番 宝珠院{ほうしゅいん}

金剛山神明坊神護寺宝珠院
南房総市府中687(旧三芳村)

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「あま寺へ 参るわがみもたのもしや はなのお寺を見るにつけても」

本尊:地蔵菩薩

 宝珠院は、現在京都智積院{ちしゃくいん}の末寺だが、明治27年(1894年)までは京都醍醐寺報恩院の末寺だった。創建は応永11年(1404年)。開山宥伝{ゆうでん}の父が深く仏教に帰依{きえ}して、私財を投じて寺院を創り、宥海{ゆうかい}僧都を開基として招いて実乗院と称したのが始まりと伝えている。その後宝珠院と改めた。里見氏からは寺領275石余を給され、徳川氏からも203石余の寺領が安堵されている。江戸時代には安房真言宗寺院の触頭{ふれがしら}として国内281か寺を支配していた。また談林所{だんりんじょ}として安房国真言宗唯一の学問所でもあった。大正12年(1923年)の関東大震災により山内諸堂が倒壊し寺宝の多くを失ったが、現在でも県指定文化財の仏像・絵画・工芸品3点、市指定文化財12点を所蔵している。大正大震災まで境内には4つの子院{しいん}があった。十一面観音菩薩像は、開山宥伝の母妙光尼{みょうこうに}が応永11年(1404年)に子院の西光院本尊として安置したものであるといわれ、西光院を尼寺{あまでら}と呼んでいた。近年この像は鎌倉時代の徳治{とくじ}2年(1307年)に仏師定戒{じょうかい}が制作したことがわかった。現在の観音堂は関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したもの。ご詠歌額は享保15年(1730年)長狭郡北小町村(鴨川市)の佐生{さしょう}勘兵衛が奉納したもので、安房国札{くにふだ}観音の寺々には同人の額がよく残されている。


24番 延命寺{えんめいじ}

長谷山延命寺
南房総市本織2014-1(旧三芳村)

曹洞宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「平尾山 のぼりて見ればうどの原 出世はここに七夕の松」

本尊:虚空蔵菩薩

 延命寺は里見実堯{さねたか}を開基とし十代忠義までの後期里見氏の菩提寺である。寺伝によれば永正{えいしょう}17年(1520年)に里見実堯が吉州梵貞{きっしゅうぼんてい}を師の礼をもって迎え開山にしたとされている。慶長年間には里見氏から217石余の寺領を与えられ、その後徳川家からも同様に保護されてきた安房曹洞宗の中心的なお寺。十一面観音像はもと平尾山大通寺の本尊で、当寺の裏山にあったという。裏山には天文の内乱で殺害され後期里見氏の家祖とされた里見実堯、里見氏の全盛期を築いた義堯{よしたか}・義弘{よしひろ}父子三人の墓所がある。県の文化財に指定されている板碑{いたび}も同墓域内にある。この板碑は里見氏とは関係なく鎌倉時代の有力者のものだが、板碑は安房地方には少なく貴重。参道入口にある里見氏旧跡の碑は、明治41年(1908年)、安房の名士が中心となって荒廃していた安房郡内の里見氏墓域整備を行い、その翌年事業を記念して建てられた碑である。本堂内では毎年8月に地獄極楽絵図が公開されて多くの参詣者が訪れる。